“福祉の模範国”とよくいわれる北欧諸国はどうだろう?
いちはやく知的障害者・身体障害者・老人福祉に取り組くんだデンマークやスウェーデンなどでも、精神障害者に関してはやや出足が遅れた。北欧諸国が精神障害者福祉に本腰を入れ出したのは70年代も後半のことであった。
しかし、さすが“福祉国”だ。ひとたび改革に着手するやそのスピードは速かった。例えばデンマークでは75年に「1万:21床」だった精神病床数が98年で「8床」、スウェーデンでは75年に「1万:39床」だったのが98年には「7床」と激減している。
病院を出た者の殆どがグループホームなどに移り住み、手厚いケアのもと、近隣の人たちと普通の交流をして暮らしている。国民全体が「それが当たり前なのだ」と思うようになっている。「開かれている」とは、こんな状況のことを言うのであろう。
もうひとつ、アメリカの場合について述べておきたい。アメリカの変革過程は極めて特異であったから。
アメリカの州立精神病院が巨大化して悲惨な場と化したことは既に述べた。1995年にはアメリカ国内の入院者数は実に55万人に達した。1960年の精神病床数は「1万:40床」である。
この惨状にJ・F・ケネディは63年の大統領教書のなかでこう訴えた。
「アメリカの精神病院は恥ずべき状態にある。患者は死ぬこと意外にそこから逃れる術のない日々を送っている」。
彼は全州に向かって病院改革や医療体制の整備を督促したが、彼の言葉にもかかわらず事態はあまり変わらなかった。実際にアメリカを動かしたのは大統領ではなく、入院患者自身だった。それがいかにもアメリカらしい。
いきさつはこうだ。
66年にコロンビア州で、70年にアラバマ州で、入院患者が州裁判所に裁判を起こした。訴えの内容は、「私は治療も受けずに拘束されている。これは違法である」というものだ。この問題では、患者と州政府・病院との間で長い間の論争が交わされたが、結局、患者側が勝訴する。
アラバマ州でのこの勝訴判決は、判事の名前をとって「ジョンソン判決」と呼ばれるが、この判決がその後、アメリカの全州立精神病院を大きく揺さぶることになる。
ジョンソンの判決は「治療のない拘束は違法である」と断じたうえで、州立病院が早急に整えるべき条件を35カ条に亘ってこと細かに示した。入院数に見合ったスタッフ配置や治療システムや施設整備基準などなどの改善命令である。
この判決以降、全米各州で患者の提訴が相次い出されることになり、いずれも同様の判決が出て患者側が勝った。
これで困ったのは州当局である。判決通りの条件を整えると莫大な費用がかかり、州財政が破綻してしまう。そのため当局は州立精神病院に向かって矢の催促をした。
「もっと入院者を減らせ。もっと患者を出せないか」。
かくして、あっという間に多勢の患者が退院させられた。退院というより追い出された。彼らは倒産したモーテルや古倉庫を改造した「ボーディングホーム」なる安上がり施設に移される。やがてその一部が路上に流れ出し、路上生活者となった。
ともあれ、アメリカの入院者数は驚異的なスピードで55万人から10万人を切るまでに減少した。しかし、それに見合う地域ケア体制はほとんど整えられなかった。
シカゴ北部郊外では1万5千人近い患者が無資格施設に住まわされ、そこは“精神科ゲットー”と呼ばれた。彼らの生活交付金はマフィアら略奪者の格好の餌食となった。ニューヨークのマンハッタンでは2万5千人が安ホテルなどに住まわされて同様の憂き目をみた。
要するに彼らは、かつて“病院に捨てられた”と同じように、今度はゴミの如く“町へ捨てられた”のである。金はベトナム戦争で使われていたし、その後の経済の悪化で彼らに十分な資金が投ぜられなかった。
こんな状況を評して、「アメリカの改革は“脱入院化”であって“地域化”ではない」と批判する人は多い。精神病院の解体が、真の地域化理念からではなくて、経済の都合から進められた結果である。
だが一方でこんな見方をする人もいる。
「たしかにアメリカの改革は失敗だった。でも、以前にくらべればまだましだ。何故なら、精神病者はいま精神病院の中にではなくその外にいるのだから」と。
確かに、これも「開かれた精神医療」の一型ではあるだろう。
以上、第二次大戦後から今日に至るまでの、欧米諸国の精神医療改革についていくつかの国をあげて概観した。
見ての通り、それぞれの国によって、その開始の時期や方法や質や内容に違いはある。だが、すべての国に共通している事柄があることも容易にわかる。
その共通項は、「めったやたらの収容政策の放棄」と「精神病院の縮小」と「精神病者の地域化」だ。
第二次大戦を境として、欧米諸国は精神医療政策を「収容」から「地域」へ、「閉ざされた精神医療」から「開かれた精神医療」の構築へと、その舵を大きくきったのだった。【つづく】
■関連情報
石川信義(いしかわ・のぶよし):1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、東京大学経済学部・医学部卒。学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。
著書に、『心病める人たち』岩波新書(1990年)、 href="http://books.livedoor.com/item/1754987">『鎮魂のカラコルム』岩波書店(2006年)、『開かれている病棟』(星和書店)など。
【むかしとんぼ】ムカシトンボ(昔蜻蛉)、学名Epiophlebia superstes。トンボ目・ムカシトンボ科のトンボ。体長約5センチ。春季、渓流で見られる。日本固有種。原始的なトンボの形をつたえ、生きている化石といわれる。日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボ(Epiophlebia laidlawi)がヒマラヤ山脈周辺に分布するのみ。
【PJニュース 2010年8月3日
いちはやく知的障害者・身体障害者・老人福祉に取り組くんだデンマークやスウェーデンなどでも、精神障害者に関してはやや出足が遅れた。北欧諸国が精神障害者福祉に本腰を入れ出したのは70年代も後半のことであった。
しかし、さすが“福祉国”だ。ひとたび改革に着手するやそのスピードは速かった。例えばデンマークでは75年に「1万:21床」だった精神病床数が98年で「8床」、スウェーデンでは75年に「1万:39床」だったのが98年には「7床」と激減している。
病院を出た者の殆どがグループホームなどに移り住み、手厚いケアのもと、近隣の人たちと普通の交流をして暮らしている。国民全体が「それが当たり前なのだ」と思うようになっている。「開かれている」とは、こんな状況のことを言うのであろう。
もうひとつ、アメリカの場合について述べておきたい。アメリカの変革過程は極めて特異であったから。
アメリカの州立精神病院が巨大化して悲惨な場と化したことは既に述べた。1995年にはアメリカ国内の入院者数は実に55万人に達した。1960年の精神病床数は「1万:40床」である。
この惨状にJ・F・ケネディは63年の大統領教書のなかでこう訴えた。
「アメリカの精神病院は恥ずべき状態にある。患者は死ぬこと意外にそこから逃れる術のない日々を送っている」。
彼は全州に向かって病院改革や医療体制の整備を督促したが、彼の言葉にもかかわらず事態はあまり変わらなかった。実際にアメリカを動かしたのは大統領ではなく、入院患者自身だった。それがいかにもアメリカらしい。
いきさつはこうだ。
66年にコロンビア州で、70年にアラバマ州で、入院患者が州裁判所に裁判を起こした。訴えの内容は、「私は治療も受けずに拘束されている。これは違法である」というものだ。この問題では、患者と州政府・病院との間で長い間の論争が交わされたが、結局、患者側が勝訴する。
アラバマ州でのこの勝訴判決は、判事の名前をとって「ジョンソン判決」と呼ばれるが、この判決がその後、アメリカの全州立精神病院を大きく揺さぶることになる。
ジョンソンの判決は「治療のない拘束は違法である」と断じたうえで、州立病院が早急に整えるべき条件を35カ条に亘ってこと細かに示した。入院数に見合ったスタッフ配置や治療システムや施設整備基準などなどの改善命令である。
この判決以降、全米各州で患者の提訴が相次い出されることになり、いずれも同様の判決が出て患者側が勝った。
これで困ったのは州当局である。判決通りの条件を整えると莫大な費用がかかり、州財政が破綻してしまう。そのため当局は州立精神病院に向かって矢の催促をした。
「もっと入院者を減らせ。もっと患者を出せないか」。
かくして、あっという間に多勢の患者が退院させられた。退院というより追い出された。彼らは倒産したモーテルや古倉庫を改造した「ボーディングホーム」なる安上がり施設に移される。やがてその一部が路上に流れ出し、路上生活者となった。
ともあれ、アメリカの入院者数は驚異的なスピードで55万人から10万人を切るまでに減少した。しかし、それに見合う地域ケア体制はほとんど整えられなかった。
シカゴ北部郊外では1万5千人近い患者が無資格施設に住まわされ、そこは“精神科ゲットー”と呼ばれた。彼らの生活交付金はマフィアら略奪者の格好の餌食となった。ニューヨークのマンハッタンでは2万5千人が安ホテルなどに住まわされて同様の憂き目をみた。
要するに彼らは、かつて“病院に捨てられた”と同じように、今度はゴミの如く“町へ捨てられた”のである。金はベトナム戦争で使われていたし、その後の経済の悪化で彼らに十分な資金が投ぜられなかった。
こんな状況を評して、「アメリカの改革は“脱入院化”であって“地域化”ではない」と批判する人は多い。精神病院の解体が、真の地域化理念からではなくて、経済の都合から進められた結果である。
だが一方でこんな見方をする人もいる。
「たしかにアメリカの改革は失敗だった。でも、以前にくらべればまだましだ。何故なら、精神病者はいま精神病院の中にではなくその外にいるのだから」と。
確かに、これも「開かれた精神医療」の一型ではあるだろう。
以上、第二次大戦後から今日に至るまでの、欧米諸国の精神医療改革についていくつかの国をあげて概観した。
見ての通り、それぞれの国によって、その開始の時期や方法や質や内容に違いはある。だが、すべての国に共通している事柄があることも容易にわかる。
その共通項は、「めったやたらの収容政策の放棄」と「精神病院の縮小」と「精神病者の地域化」だ。
第二次大戦を境として、欧米諸国は精神医療政策を「収容」から「地域」へ、「閉ざされた精神医療」から「開かれた精神医療」の構築へと、その舵を大きくきったのだった。【つづく】
■関連情報
石川信義(いしかわ・のぶよし):1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、東京大学経済学部・医学部卒。学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。
著書に、『心病める人たち』岩波新書(1990年)、 href="http://books.livedoor.com/item/1754987">『鎮魂のカラコルム』岩波書店(2006年)、『開かれている病棟』(星和書店)など。
【むかしとんぼ】ムカシトンボ(昔蜻蛉)、学名Epiophlebia superstes。トンボ目・ムカシトンボ科のトンボ。体長約5センチ。春季、渓流で見られる。日本固有種。原始的なトンボの形をつたえ、生きている化石といわれる。日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボ(Epiophlebia laidlawi)がヒマラヤ山脈周辺に分布するのみ。
【PJニュース 2010年8月3日