障害者と家族、ボランティアが列車を借り切って旅する「ひまわり号」が多摩地区で初めて走ってから三十年。まだ障害者の鉄道旅行が困難だった一九八〇年代に、ひまわり号の旅を実行委員会方式で開催する動きが、都内から全国へと広がった。だが最近は運営を担う人材不足もあってピーク時より半減した。そんな状況下、国分寺市では、NPO法人理事長の春口明朗(あきお)さん(71)が一家四人で、障害者の夢をつないできた。
JR国分寺駅を三日、ひまわり号が出発した。総勢百八十三人が長野県の諏訪湖まで日帰り旅行を楽しんだ。ことしも運営スタッフの中に、実行委員長の春口さんと、妻で会計担当の富子さん(70)、長女で事務局長の下舘愛さん(38)、次女の鈴木夢さん(36)の笑顔があった。「参加者に喜んでもらえるひまわり号は、私たちにとっても年一回の楽しみな家族旅行なんです」と春口さん。
春口さんは小学校教諭などを勤めたころ、障害児教育に力を入れ、退職後にNPO法人「Ohana(オハナ)」を設立して、農園で知的障害者らの就労を支援している。富子さんは二十年ほど前から知的障害者のグループホームを運営している。
夫妻は八四年十一月三日に多摩地区で九つの地域実行委が合同で初めてひまわり号を走らせた時から、現在まで運営に携わってきた。「始めたころはトイレをどうするかなど議論続きで大変でしたが、心からうれしそうな参加者の笑顔を見て続行を決意した。だれもが生き生き暮らせるまちづくりを願う私に、ひまわり号運動はぴったりと合った」と春口さんは振り返る。
当時、八歳と六歳だった愛さんと夢さんの姉妹も、街頭でカンパ集めをする両親を手伝った。この後、毎年のように実行委を手伝い、やがて中心メンバーに。「両親の姿を見ていて、ひまわり号を手伝うのは自然なことでした」と口をそろえる。今回も事務局長の愛さんは出発式の司会をこなし、Ohana職員の夢さんは障害者と一緒に作ったお菓子を車内で販売して歩いた。
実行委メンバーらは「国分寺でひまわり号が続いているのは、春口さん家族がいたから」と感謝を口にする。春口さんは「三十年もの間、妻と娘たちが当たり前のように力を合わせてくれたことを、うれしく思います」と笑顔を見せた。
<「ひまわり号」> 車いすなどの障害者にとって駅の階段やトイレなどの問題から鉄道旅行が困難だった時代に、北区の北病院職員と当時の国鉄職員らが協力して1982年11月3日、障害者らを乗せたひまわり号を上野-日光駅間で初めて走らせた。翌年から全国に実行委員会方式で拡大した。
多摩地区では84年に9つの地域実行委合同で始まり立川など4駅から乗車した747人が諏訪湖への旅を楽しんだ。
98年には全国で延べ71本が走ったがその後、運営スタッフの後継者難などからほぼ半減したとみられる。多摩地区ではほかに立川で実施している程度だ。
「ひまわり号」のマークを手にした春口明朗さん=ひまわり号の車中で
2014年11月12日 東京新聞