ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

障害者ら和太鼓公演

2014年11月29日 01時26分19秒 | 障害者の自立

 鶴見区知的障害児者親の会「ひよこの会」の和太鼓グループ「あらじん」が12月21日、横浜ラポールラポールシアター=港北区鳥山町1752=で行われる。

 コンサートは、あらじんが設立10周年を迎えたことを記念に開催。メンバーは「川崎太鼓仲間響」の指導のもと、日々練習を重ねてきた。

 当日はあらじんメンバーのほか、設立メンバーの一人で、現在はプロの和太鼓奏者として活躍している友野龍士さん(馬場在住)も出演する予定。主催者は「言葉ではうまく伝えられないこともあるが、太鼓なら気持ちを伝えることができる。一体となって響き合う演奏を楽しんで」と話している。

 午後1時開場、2時開演。入場無料でチケット制(要予約)。問合せ・予約チケットの申し込みは渡邊さん【携帯電話】090・4395・2066。

2014年11月29日 土曜日    タウンニュース


人生を変えたクライミングと病気 障害者となり気付いた「自分にしかできないこと」

2014年11月29日 01時12分15秒 | 障害者の自立

小林幸一郎さん(視覚障害者クライマー)

  林幸一郎にとってクライミングとは、生まれて初めて心惹かれた何よりも愛した世界であった。自然に抱かれた至福の時。だが、そんな岩山と自分だけの世界に静かに魔が忍び寄っていた。

 「確実に病状が進行していって、クライミングに行っても新緑や紅葉、青空や夕焼けといった美しい自然から色鮮やかさが奪われていきました。運転免許の書き換えもできなくなり、少しずついろいろなものを失っていったのです。そして次は何ができなくなるのか、その次はなんだ……。まるで我が身が削られていくような思いでした」

何事にも関心を持てなかった小中学生時代

 フリークライマー小林幸一郎、1968年東京生まれ。

 「勉強は嫌い、スポーツも苦手、とにかく努力することが嫌で何をやってもぜんぜんダメ。チームスポーツをやっても僕が原因で負けたりするんです。だから、何をしても楽しくない。楽しくないなら、楽しくなるように頑張ればいいじゃないか、とも思うのですが、頑張ることができなかった。いま振り返ってもいいところ無しの小学生時代でしたね(笑)」

 小林は母親と二人暮らし。「男の子なんだからスポーツくらいやって」という母親の思いも理解していたが、それに応えようという気持ちにはなれなかった。

 小さい頃から周りに自分を格好良く見せたいという気持ちもなく、また好きになったり夢中になったアニメや憧れのヒーローもなく、将来の夢すらも持てなかった。

 けっして友人がいないわけではなかった。いっしょにサッカーや野球をやろうとも誘われた。いじめられていたわけでもない。

 小林は自分が好きでもないことで他人と比較され、勝敗を競ったりすることに興味が湧かなかった。また、何事にも頑張ってみようという気にもなれなかったのである。少年らしからぬそれは中学に進学してからも変わらなかった。

 「人には苦手なことや、できないことがあるのは仕方のないことです。でも、僕の場合はそういうことではありません。当時から何もしない、何もできない。そんな自分が好きではありませんでした」と語り、その頃の記憶もあまり残っていないと苦笑いを浮かべた。

自分の「居場所」となったクライミング

 だが、そんな小林に突如転機が訪れた。

「高校2年生の時でした。たまたま本屋さんで『山と溪谷』という雑誌を手に取って『アメリカから入ってきた新しいスポーツ フリークライミングをはじめよう』という特集記事を読んだことがキッカケです。これなら勝ち負けがないし、誰かの足を引っ張ることも、体格差も関係ないと考えてやってみようと思ったのです。これが人生を変える最初の転機になりました」

 それまでは身体が小さいことや勉強嫌い、運動が苦手、さらには頑張れない自分に対してコンプレックスを抱えながら生きてきた。小林自身、それまでの自分を肯定していたわけではなかった。自分にも何か夢中になれるものが欲しいと心の奥深いところで渇望してきたのだ。

 その心が目覚めた。

 すぐに特集記事の中にあったクライミングスクールに電話を入れた。

 クライマー人生のスタートは長野県の川上村、クライマーたちが『小川山(おがわやま)』と呼ぶ岩場だった。

 周りは大人ばかりで高校生は小林ひとりだったが、その空間は居心地が良かった。安全ベルトを付けロープを結ばれて「じぁあここだから」と指された岩場を登っていった。

 自然の中で、自然の岩を相手に、自然の中で時間を過ごすことに小林は大きな魅力を感じた。

 その当時高校生にとってフリークライミングは身近なスポーツではなかったでしょう?という質問に「僕にとってはサッカーやバスケットボール、ラグビーや柔道といういわゆる学校の部活にあるスポーツの方がはるかに遠い存在でした。自分には無理だし、関係ないものと思っていましたから。『山と溪谷』だって高校3年生の時だったら、見過ごしていたり、違った感じ方をしたかもしれません。何事もタイミングってありますよね」と返ってきた。

 哲学者であり教育者である森信三氏の言葉に「人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず」という言葉があるが、まさにそうした縁のもとで結ばれたのだろう。

 小林にとってクライミングはスポーツといった感覚ではなく、自分の居場所そのものだったのかもしれない。

クライミングのためにアルバイト三昧の大学時代

 「僕が初めて岩場に登った方法はトップロープといって、一カ所は自分で、もうひとつは安全確保してくれる方が操作しながら登る方法でした」

 「スポーツをしてこなかったので、最初は何もできず、もちろん登れませんでした。それでも楽しかった」

 「新しいことをやった喜びですよ。きっと僕の中では新しいことがしたかったのかもしれないけれど、そうできない自分がいましたから。でもあの日の『小川山』では新しいことをやった新鮮さや、身体を動かすことの喜びを感じました」

 「それはスポーツとしての側面だけではなくて、自然に囲まれていることはもちろん、大人たちに交じっていることも居心地が良くて、クライミングを取り巻く『ふわっ』とした感覚まで魅力的だったのだと思います」

 すっかり魅了された小林は、毎月1度はクライミングスクールに参加して岩場を登るようになった。高校3年に進級後、大学進学準備のためブランクはあったが受験が終わるとすぐにアルバイトに精を出してクライミングに行くお金を貯めた。

 「小林君、受験は終わったの。じゃあ戻っておいでよ」というクライミング仲間に誘われるようにして再び岩場に戻っていった。

 小林はクライミングに夢中になった。仲間も増えた。

 「大学生になって僕の生活はクライミングを軸に変わりました。週に5日間、1日10時間くらいアルバイトをして、そのほとんどを山に使いました。学生なのに勉強しに行っているのか、アルバイトをしに行っているのかわからないような生活になりました。

 行先は季節によって変わりますが、夏場は標高が高く涼しくて空気が乾いている小川山に行き、冬場は暖かい伊豆の城ケ崎あたりによく行きました」

 大学卒業後は旅行会社に就職し営業を担当した。形のないものを売ってみたい。それも自分の興味のあるものに携わりたいというのが希望した理由である。まったく社交的でなかった小・中学生時代からは考えられない変貌であるが、それもクライミングによって得た自信によるものが大きいと小林は言う。

 その社会人生活の中心も、もちろんクライミングに置かれていた

 金曜日、仕事を終え自宅に帰ると、すぐに車にキャンプ道具を積みこんで岩場に向かった。身体的には疲れるが、小林にとって岩場こそが最高のリフレッシュの場だったのである。

 その後、小林はアウトドア用品の会社に転職し、責任者としてアウトドアツアーの企画運営と自らもガイドを務め、忙しく追われる毎日を過ごしていた

「病気とどう向き合っていけばよいのか」
医療に対する失望感

 「最初に目の病気を告げられたのは28歳の時です。両目ともに視力は良かったのですが、あるとき夜車を運転していて見えづらいことに気付いたのです。あとは雨の日の対向車も見えづらくなっていました。当時は資料作成の仕事が多くて、それで目が悪くなったのかなと思っていたのですが、メガネ屋で『小林さんの眼は機械では測れないから眼科医に行った方がいい』と勧められました。それで診察を受けたところ『あなたは遺伝を原因とする網膜の病気です。現在世界的にこの病気の治療方法はなく、確実に進行していって近い将来間違いなく失明します』と告げられました」

 病名は「網膜色素変性症」。小林の視力は目の中心部から失われ始めていた。

 「失明?」「治療方法がない?」「どうして俺が?」

 医師から告げられても、すぐに受け入れることができず自分のこととは感じられなかった。

 これから自分はどうなるのだろうという不安を抱えながら、○○病院に名医がいると勧められれば診察を受けに行った。しかし「あなたの受けた診断は正しく近い将来あなたは失明します」と告げられた。

 こうしたことが何度か繰り返されるうちに心の傷が深まっていった。

 「医者は僕の目の中を覗き込んで、「治せません」と言うだけです。でも僕はこの病気とどう向き合っていけばよいのか、これから何がおきて、どうなっていくのか、どうやって生きて行けばよいのか、生きる為に何をすればよいのか、人としての自分とか、心の不安とかを覗きこんでくれる医者はいないのか? 藁をもつかむ思いでいくつかの病院を訊ねましたが、医療に対する失望感は大きくなるばかりで、過ぎて行く時間のなかで絶望に近い思いを持ちました」

 病状は進行し、自然の色鮮やかさが徐々に奪われていった。この先どうなるのか不安が大きくなっていくなかで友人にある医療機関を勧められた。小林は「どこに行っても同じだよ」と自暴自棄になったが、この医師との出会いこそが、現在の小林に繋がる希望の光となったのである。

 「今で言うロービジョンケア(視覚に障害があるため生活に何らかの支障をきたしている人に、医療のみならず総合的な支援を行っていくこと)の受診を勧めてくれました。先生は僕の目の中を覗き込むだけではなく、心の中も覗きこもうとしてくれました。『小林さんの病気は他の医療機関で診断されたことに間違いはありません。ただ、あなたの人生はこれでおしまいではないのだから、これからどうやって生きてくかを考えなきゃいけませんね』と」

 「それまで受けてきた医療機関のようにベルトコンベアーに乗せられるみたいに、ちょっと目を覗いて、治りませんね、はいオシマイという感じではなかったのです。それまでの医師たちとは明らかに違った先生でした。治らない病気とどう向き合って行けばよいのか、相談できる人に出会えたのです。この先生と出会えたことが転機になりました」

 そして、この医師の勧めでロービジョンクリニックに通い始め、そこでケースワーカーから生きる指針となる言葉をもらった。

 「これから何ができなくなるのか、そのためにどんな準備をしていけばいいのか?と聞かれても私たちには何も出来ません。小林さん、もっと大事なことがあるでしょ。それは、これからあなたが何をしたいのか、どうやって生きていきたいのか、なんですよ。それがあれば、私たちも、あなたの周りにいる人たちも、社会の仕組みも、あなたのことを支えてくれるはずです。あなたはいろいろなことが出来るはずだ。自分のやりたいことをやればいい。しっかりと自分の人生を歩みなさい」

 失うものに心とらわれていては前に進む力は生まれない。

 医師の言葉が小林を変えるキッカケとなった。

 それまではできなくなることを指折り数えていたような毎日を送っていたが、たとえ目が見えなくなっても、自分にできるやり方を見つけ、自分にしかできないことをすればいいと思えるように変わっていった。

全盲のクライマーとの出会い

 この時期、もうひとつ大きな出会いがあった。

 コロラドに住む友人の結婚式に出席した小林は、「アメリカには全盲でエベレストに登った人がいる」と教えられた。エベレストを登るだけでも驚異なのに、それが全盲のクライマーとは……。

 目が見えなくても、いま自分が想像している以上にいろいろなことができることを知った。帰国後、Webサイトにアクセスして「私は日本に住んでいる視覚障害者です。あなたと同じようにアウトドアの世界を愛し、クライミングを愛しています」というメールを送った。そして「あなたに会いたい」と伝えたところ、「コロラドの自宅にいるので来てくれるなら会えるよ」と返ってきた。

 偶然にも二人は同い歳だった。国は違えども愛する世界は同じだ。気持ちが通じ合うまでにそれほど時間は掛からなかった。二人はその日のうちに岩場へ出掛けた。

 彼の名はエリック・ヴァイエンマイヤー。世界七大陸の最高峰を完全制覇した全盲のクライマーである。そのヴァイエンマイヤー氏から「アメリカではたくさんの障害者がクライミングを通じて可能性や自信を感じている。まだ日本でそれができていないなら、それを伝えることこそが君の仕事じゃないのか」と言われた。

 「彼はクライミングの高度で専門的なことまで、みんな自分でやっていたのです。見せつけられた感じがして驚きました。また、僕がそれまで漠然と思っていたことを指摘されたようで、彼との出会いや、彼の言葉が僕を動かしてくれたようなものです」

 「振り返れば障害を知らされ、この先どう生きていくのか先が見えなかった時にロービジョンケアの医師に出会い、自分にできることは何か、できないことは何かを考えはじめました。その後、エリックとの出会いによって、自分にしかできないことはこれだと確信していくようになりました」

 障害を持つこと、それはある機能を失うことでもあり、人によっては夢や生きる希望までをも奪われるものである。しかし、新たな価値を生むという視点にも気づかなければならない。

 人も社会も違いを尊重し、違いに価値があることを見出していくことが大切なのではないだろうか。

人に伝え、人と共有するためのクライミング

 小林は視覚障害者の可能性を高めることを目的として、フリークライミングを広く社会に普及するため2005年8月に「NPO法人モンキーマジック」を立ち上げた。

 その2年ほど前から任意団体として病院の医師を通じて視覚障害者にクライミングの普及を始めたところ、その活動には様々な賛同者が集まり「これで食って行こう」という覚悟を決めた。

 「障害者になるまでクライミングは自分が楽しめればいいし、自分の仲間内だけが楽しければそれで良かったのです。人のためや社会のためではありませんでした」

 「でも自分が障害者になることによって、クライミングを社会に伝えることが自分のアイデンティティになっていったのです。以前は自分のためのクライミングだったのですが、今では人に伝え、人と共有するためのクライミングになるまで成長しました」

 「それに2011年に初めて障害者部門が取り入れられたイタリアの世界選手権で優勝し、今年スペインで行われた世界選手権でも優勝しました。誰かと競うことにまったく興味のなかった僕が、スポーツの世界で日の丸を付けて、表彰台の一番高いところに立って、君が代を聞くなんて以前なら想像もできませんでした。障害者は可哀そうとか、できないことが多くて不幸と思われがちですが、僕は障害を負ったからこそ得られた経験がとても多く、いまそこに幸せを感じています」

 「次の目標は2016年にパリで行われる世界選手権に出ることです」

 最後にこうメッセージを残した。

 「クライミングは一日のうちに何回も失敗して落ちます。失敗して、失敗して、落ちて、落ちて、落ちて、でも努力することによって、必ず登り方が見つかって、少しずつ前に進めることをクライマーは知っています。努力しだいで必ず答えが手に入ることを知っているのです」

 「クライマーは失敗して落ちてもまた戻っていきます。それって人生と同じだなと思うのです」

 「僕はこれからもクライミングと共に生きていきたいと思っていますし、死ぬギリギリまで身体を動かして終わりたい。そういう生き方をしたいと思っています。勝ったり負けたりではなく、何歳になっても岩に登っていることが豊かだと思いますので、いつまでもそういう自分でありたいと思っています」

2014年11月28日(Fri)      WEDGE Infinity


京都府北部初の障害者専門の歯科診療所が開所

2014年11月29日 01時08分36秒 | 障害者の自立

 障害者専門の歯科診療所「京都歯科サービスセンター北部診療所」が26日、福知山市問屋町に開所した。市公設地方卸売市場の管理棟1階にあり、オープニングセレモニーで関係者たちが開設を喜び合った。

 京都府と福知山など近隣5市2町が連携し、一般社団法人府歯科医師会(平塚靖規会長)が開設。歯科医師会は1970年に京都歯科サービスセンターを京都市内に立ち上げており、これまでに延べ26万人の患者を診てきた。しかし、北部には障害者のための診療所がなく、遠距離を通う必要があったため、要望に応えて設けた。

 セレモニーには、行政や地元の障害児者親の会などの関係者が出席し、初めに岡西康弘副知事、松山正治市長、平塚会長がテープカットをした。

 あいさつに立った松山市長は「障害者にとって待ちに待った開設。4年ほど前から要望はもらっていた。中には治療をあきらめた人もいると聞きます。関係者のみなさんには厚くお礼申し上げます」と感謝した。

 このあと、施設内を見学し、車いすの人たちにも利用しやすいよう工夫された診療台などをじっくりと見て回った。

 完全予約制で、診療は毎週水、木曜日の午後1時から4時まで。


京都歯科サービスセンター北部診療所

写真=施設内を見て回る出席者たち

両丹日日新聞2014年11月27日のニュース


記者の目:視覚障害者の一人歩き=佐木理人(点字毎日部)

2014年11月29日 01時02分44秒 | 障害者の自立

 ◇白杖が自然な風景に 佐木理人(あやと)

 白杖(はくじょう)や盲導犬を使って一人歩きをする視覚障害者がケガをするなどの事件が続いた。ネットでは「見えないなら一人で歩くな」という書き込みも見られた。かつては盲導犬を使い、現在は白杖による単独移動で取材活動をしている全盲の私にとって、事件は人ごとではなく、偏った見方には怒りさえ感じる。トラブルや偏見をなくす一番の方法は、障害者の歩行の現状が的確に報道されること、そして何より当事者や関係者が声を上げ、社会の理解を深めることに尽きると思う。

 ◇街中でトラブル、心ない一言も

 一人歩きの視覚障害者は、さまざまなトラブルに遭っている。特に多いのは、歩行者や自転車につえが引っかかり折れてしまう被害。私も折れはしなかったが、人混みに巻き込まれたつえを手探りで捜した経験がある。福岡市で治療院を営むしんきゅうマッサージ師の吉住寛之さん(41)は今年、3本も折られた。唯一の命綱を失ってタクシーで帰宅し、警察に被害届も出した。「つえを折るという重大さを社会に認識してほしい」からだ。

 暴力を受けた話も聞く。わずかに肩が接触した相手から頬を平手打ちされた全盲女性などはまれなケースだろうが、悪意を感じざるを得ない。近年は歩きスマホの歩行者との衝突が増えている。

 身体的な被害にも増して許せないのが、心ない一言だ。5年ほど前、急激な視力低下のため歩行訓練を受けた大阪市の主婦、高倉由子(ゆうこ)さん(58)は、白杖を持つことで周囲に自身の視覚障害を知られることにためらいがあった。それでも思い切って外出した先で、ぶつかった相手から「本当は見えているんだろ」と言われ、ショックを受けた。だが、家族や友人の励ましで再び奮起し、一人歩きの喜びと自由を取り戻した。

 埼玉県視覚障害者福祉協会が今年9月、会員らに行ったアンケートでも、回答者112人の約4割が何らかの対人トラブルに巻き込まれた経験があると答えた。岸邦久会長(65)は「街中でのトラブルは多いだろうと思っていたが、改めて痛感した」と話す。

 それでも単独歩行を選ぶ視覚障害者は多い。嫌なことよりいいことの方がはるかに多いと実感しているからだ。横断歩道近くの住民が青信号になったと教えてくれたり、通勤時の乗り換えで乗客が誘導してくれたりというエピソードは数知れず、街中での出会いが交際に発展した話もある。私が年に1度講義に行く大学への道中、最寄り駅付近や広いキャンパス内で道を尋ねた学生の大半が快く目的地までの誘導を申し出てくれる。学生の勉強内容やサークル活動の話を聞き、時には点字や視覚障害について質問され、ささやかな交流を楽しむ貴重な機会にもなっている。

 視覚障害者への福祉サービスには、資格を持つガイドヘルパーが外出時の誘導を行う制度がある。だが、月ごとの利用時間に制限があり、通学のように通年に及ぶ場合や通勤のような経済活動に関わる場合には使えない。また、大半の地方都市では、ガイドヘルパーを派遣する事業所や誘導に取り組むボランティア団体が少ない。そうした現状から一人歩きをせざるを得ない場合もある。また、同行者なしで出かけたいこともある。だから街を行く人たちのサポートは本当にありがたい。

 ◇理解深めるため、生の声上げよう

 福祉制度が進み、街を歩く視覚障害者は増えた。教育現場での福祉の取り組みも珍しくない。だが、「白杖は視覚障害者の体の一部」「盲導犬はかけがえのないパートナー」「点字ブロックは視覚障害者の道しるべ」といったことさえ、いまだに十分伝わっていない。そんな状況を変えられるのは、障害当事者や支援を続ける関係者らによる生の声と積極的な実践だろう。1996年、浜松市で全国初の視覚障害者中心の小規模授産所「ウイズ」を設立したNPO法人六星の斯波千秋理事長(65)は、利用者に「通所途中で誘導の申し出があれば断らず、時間に遅れてもサポートの方法を知ってもらおう」と呼びかけている。障害のある利用者が公共交通機関を使うことで、乗務員や乗客の対応が向上した経験があるからだ。

 わが家では、娘2人の朝の幼稚園への送りは、健常者の妻ではなく私の担当だった。盲導犬や白杖を使って子供と通園するスーツ姿の視覚障害者に、最初は誰もが戸惑っていたが、4年間あいさつを交わすうち、自然な風景に変わった。卒園後も地域の人たちから声を掛けられ、良好な関係を築く機会になった。障害の有無を超え、互いが歩み寄ることで、新たな体験の場が生まれ理解が深まり、大きな動きになる。「街を行く人たちと共に社会を変えたい」という思いを胸に、全盲記者ならではの発信を続けたい。

白杖を手に一人歩きをする視覚障害者。街には安全な移動を妨げる「バリアー」がまだまだ多い=大阪市西区で

毎日新聞 2014年11月28日 東京朝刊


岡垣の障害者施設、水巻町にボールペンを納品 優先調達推進法に基づき町が発注 /福岡

2014年11月29日 00時58分16秒 | 障害者の自立

 岡垣町の障害者支援施設「希望舎」(辻譲治施設長)は25日、水巻町にボールペン900本(約9万9000円相当)を納品した。自治体に障害者施設への物品などの発注を求める障害者優先調達推進法に基づく取り組みで、希望舎はペンの袋詰めを担当した。仲介した障害者施設の団体「県セルプセンター」(事務局・春日市)は「障害者施設の取引先の拡大につながる」と話している。

  辻施設長と袋詰めをした入所者の古賀茂義さん(59)と通所者の徳永晋也さん(36)が、四つの紙箱に小分けしたボールペンを美浦(みうら)喜明町長に手渡した。古賀さんは「袋を閉じるのが難しかった」。徳永さんは「町長に会ったのは初めてで、とても緊張した」と話した。

 県セルプセンターは6月、障害者優先調達推進法に基づき、県や各市町村に障害者施設への発注を進めるよう要請、これに応じた水巻町がセンターにボールペンを注文した。センターは希望舎に袋詰め作業を紹介し、ボールペンメーカーにも取引に加わるよう求めた結果、今回の納品に至った。

毎日新聞 2014年11月27日 〔北九州版〕