小林幸一郎さん(視覚障害者クライマー)
林幸一郎にとってクライミングとは、生まれて初めて心惹かれた何よりも愛した世界であった。自然に抱かれた至福の時。だが、そんな岩山と自分だけの世界に静かに魔が忍び寄っていた。
「確実に病状が進行していって、クライミングに行っても新緑や紅葉、青空や夕焼けといった美しい自然から色鮮やかさが奪われていきました。運転免許の書き換えもできなくなり、少しずついろいろなものを失っていったのです。そして次は何ができなくなるのか、その次はなんだ……。まるで我が身が削られていくような思いでした」
何事にも関心を持てなかった小中学生時代
フリークライマー小林幸一郎、1968年東京生まれ。
「勉強は嫌い、スポーツも苦手、とにかく努力することが嫌で何をやってもぜんぜんダメ。チームスポーツをやっても僕が原因で負けたりするんです。だから、何をしても楽しくない。楽しくないなら、楽しくなるように頑張ればいいじゃないか、とも思うのですが、頑張ることができなかった。いま振り返ってもいいところ無しの小学生時代でしたね(笑)」
小林は母親と二人暮らし。「男の子なんだからスポーツくらいやって」という母親の思いも理解していたが、それに応えようという気持ちにはなれなかった。
小さい頃から周りに自分を格好良く見せたいという気持ちもなく、また好きになったり夢中になったアニメや憧れのヒーローもなく、将来の夢すらも持てなかった。
けっして友人がいないわけではなかった。いっしょにサッカーや野球をやろうとも誘われた。いじめられていたわけでもない。
小林は自分が好きでもないことで他人と比較され、勝敗を競ったりすることに興味が湧かなかった。また、何事にも頑張ってみようという気にもなれなかったのである。少年らしからぬそれは中学に進学してからも変わらなかった。
「人には苦手なことや、できないことがあるのは仕方のないことです。でも、僕の場合はそういうことではありません。当時から何もしない、何もできない。そんな自分が好きではありませんでした」と語り、その頃の記憶もあまり残っていないと苦笑いを浮かべた。
自分の「居場所」となったクライミング
だが、そんな小林に突如転機が訪れた。
「高校2年生の時でした。たまたま本屋さんで『山と溪谷』という雑誌を手に取って『アメリカから入ってきた新しいスポーツ フリークライミングをはじめよう』という特集記事を読んだことがキッカケです。これなら勝ち負けがないし、誰かの足を引っ張ることも、体格差も関係ないと考えてやってみようと思ったのです。これが人生を変える最初の転機になりました」
それまでは身体が小さいことや勉強嫌い、運動が苦手、さらには頑張れない自分に対してコンプレックスを抱えながら生きてきた。小林自身、それまでの自分を肯定していたわけではなかった。自分にも何か夢中になれるものが欲しいと心の奥深いところで渇望してきたのだ。
その心が目覚めた。
すぐに特集記事の中にあったクライミングスクールに電話を入れた。
クライマー人生のスタートは長野県の川上村、クライマーたちが『小川山(おがわやま)』と呼ぶ岩場だった。
周りは大人ばかりで高校生は小林ひとりだったが、その空間は居心地が良かった。安全ベルトを付けロープを結ばれて「じぁあここだから」と指された岩場を登っていった。
自然の中で、自然の岩を相手に、自然の中で時間を過ごすことに小林は大きな魅力を感じた。
その当時高校生にとってフリークライミングは身近なスポーツではなかったでしょう?という質問に「僕にとってはサッカーやバスケットボール、ラグビーや柔道といういわゆる学校の部活にあるスポーツの方がはるかに遠い存在でした。自分には無理だし、関係ないものと思っていましたから。『山と溪谷』だって高校3年生の時だったら、見過ごしていたり、違った感じ方をしたかもしれません。何事もタイミングってありますよね」と返ってきた。
哲学者であり教育者である森信三氏の言葉に「人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず」という言葉があるが、まさにそうした縁のもとで結ばれたのだろう。
小林にとってクライミングはスポーツといった感覚ではなく、自分の居場所そのものだったのかもしれない。
クライミングのためにアルバイト三昧の大学時代
「僕が初めて岩場に登った方法はトップロープといって、一カ所は自分で、もうひとつは安全確保してくれる方が操作しながら登る方法でした」
「スポーツをしてこなかったので、最初は何もできず、もちろん登れませんでした。それでも楽しかった」
「新しいことをやった喜びですよ。きっと僕の中では新しいことがしたかったのかもしれないけれど、そうできない自分がいましたから。でもあの日の『小川山』では新しいことをやった新鮮さや、身体を動かすことの喜びを感じました」
「それはスポーツとしての側面だけではなくて、自然に囲まれていることはもちろん、大人たちに交じっていることも居心地が良くて、クライミングを取り巻く『ふわっ』とした感覚まで魅力的だったのだと思います」
すっかり魅了された小林は、毎月1度はクライミングスクールに参加して岩場を登るようになった。高校3年に進級後、大学進学準備のためブランクはあったが受験が終わるとすぐにアルバイトに精を出してクライミングに行くお金を貯めた。
「小林君、受験は終わったの。じゃあ戻っておいでよ」というクライミング仲間に誘われるようにして再び岩場に戻っていった。
小林はクライミングに夢中になった。仲間も増えた。
「大学生になって僕の生活はクライミングを軸に変わりました。週に5日間、1日10時間くらいアルバイトをして、そのほとんどを山に使いました。学生なのに勉強しに行っているのか、アルバイトをしに行っているのかわからないような生活になりました。
行先は季節によって変わりますが、夏場は標高が高く涼しくて空気が乾いている小川山に行き、冬場は暖かい伊豆の城ケ崎あたりによく行きました」
大学卒業後は旅行会社に就職し営業を担当した。形のないものを売ってみたい。それも自分の興味のあるものに携わりたいというのが希望した理由である。まったく社交的でなかった小・中学生時代からは考えられない変貌であるが、それもクライミングによって得た自信によるものが大きいと小林は言う。
その社会人生活の中心も、もちろんクライミングに置かれていた
金曜日、仕事を終え自宅に帰ると、すぐに車にキャンプ道具を積みこんで岩場に向かった。身体的には疲れるが、小林にとって岩場こそが最高のリフレッシュの場だったのである。
その後、小林はアウトドア用品の会社に転職し、責任者としてアウトドアツアーの企画運営と自らもガイドを務め、忙しく追われる毎日を過ごしていた
「病気とどう向き合っていけばよいのか」
医療に対する失望感
「最初に目の病気を告げられたのは28歳の時です。両目ともに視力は良かったのですが、あるとき夜車を運転していて見えづらいことに気付いたのです。あとは雨の日の対向車も見えづらくなっていました。当時は資料作成の仕事が多くて、それで目が悪くなったのかなと思っていたのですが、メガネ屋で『小林さんの眼は機械では測れないから眼科医に行った方がいい』と勧められました。それで診察を受けたところ『あなたは遺伝を原因とする網膜の病気です。現在世界的にこの病気の治療方法はなく、確実に進行していって近い将来間違いなく失明します』と告げられました」
病名は「網膜色素変性症」。小林の視力は目の中心部から失われ始めていた。
「失明?」「治療方法がない?」「どうして俺が?」
医師から告げられても、すぐに受け入れることができず自分のこととは感じられなかった。
これから自分はどうなるのだろうという不安を抱えながら、○○病院に名医がいると勧められれば診察を受けに行った。しかし「あなたの受けた診断は正しく近い将来あなたは失明します」と告げられた。
こうしたことが何度か繰り返されるうちに心の傷が深まっていった。
「医者は僕の目の中を覗き込んで、「治せません」と言うだけです。でも僕はこの病気とどう向き合っていけばよいのか、これから何がおきて、どうなっていくのか、どうやって生きて行けばよいのか、生きる為に何をすればよいのか、人としての自分とか、心の不安とかを覗きこんでくれる医者はいないのか? 藁をもつかむ思いでいくつかの病院を訊ねましたが、医療に対する失望感は大きくなるばかりで、過ぎて行く時間のなかで絶望に近い思いを持ちました」
病状は進行し、自然の色鮮やかさが徐々に奪われていった。この先どうなるのか不安が大きくなっていくなかで友人にある医療機関を勧められた。小林は「どこに行っても同じだよ」と自暴自棄になったが、この医師との出会いこそが、現在の小林に繋がる希望の光となったのである。
「今で言うロービジョンケア(視覚に障害があるため生活に何らかの支障をきたしている人に、医療のみならず総合的な支援を行っていくこと)の受診を勧めてくれました。先生は僕の目の中を覗き込むだけではなく、心の中も覗きこもうとしてくれました。『小林さんの病気は他の医療機関で診断されたことに間違いはありません。ただ、あなたの人生はこれでおしまいではないのだから、これからどうやって生きてくかを考えなきゃいけませんね』と」
「それまで受けてきた医療機関のようにベルトコンベアーに乗せられるみたいに、ちょっと目を覗いて、治りませんね、はいオシマイという感じではなかったのです。それまでの医師たちとは明らかに違った先生でした。治らない病気とどう向き合って行けばよいのか、相談できる人に出会えたのです。この先生と出会えたことが転機になりました」
そして、この医師の勧めでロービジョンクリニックに通い始め、そこでケースワーカーから生きる指針となる言葉をもらった。
「これから何ができなくなるのか、そのためにどんな準備をしていけばいいのか?と聞かれても私たちには何も出来ません。小林さん、もっと大事なことがあるでしょ。それは、これからあなたが何をしたいのか、どうやって生きていきたいのか、なんですよ。それがあれば、私たちも、あなたの周りにいる人たちも、社会の仕組みも、あなたのことを支えてくれるはずです。あなたはいろいろなことが出来るはずだ。自分のやりたいことをやればいい。しっかりと自分の人生を歩みなさい」
失うものに心とらわれていては前に進む力は生まれない。
医師の言葉が小林を変えるキッカケとなった。
それまではできなくなることを指折り数えていたような毎日を送っていたが、たとえ目が見えなくなっても、自分にできるやり方を見つけ、自分にしかできないことをすればいいと思えるように変わっていった。
全盲のクライマーとの出会い
この時期、もうひとつ大きな出会いがあった。
コロラドに住む友人の結婚式に出席した小林は、「アメリカには全盲でエベレストに登った人がいる」と教えられた。エベレストを登るだけでも驚異なのに、それが全盲のクライマーとは……。
目が見えなくても、いま自分が想像している以上にいろいろなことができることを知った。帰国後、Webサイトにアクセスして「私は日本に住んでいる視覚障害者です。あなたと同じようにアウトドアの世界を愛し、クライミングを愛しています」というメールを送った。そして「あなたに会いたい」と伝えたところ、「コロラドの自宅にいるので来てくれるなら会えるよ」と返ってきた。
偶然にも二人は同い歳だった。国は違えども愛する世界は同じだ。気持ちが通じ合うまでにそれほど時間は掛からなかった。二人はその日のうちに岩場へ出掛けた。
彼の名はエリック・ヴァイエンマイヤー。世界七大陸の最高峰を完全制覇した全盲のクライマーである。そのヴァイエンマイヤー氏から「アメリカではたくさんの障害者がクライミングを通じて可能性や自信を感じている。まだ日本でそれができていないなら、それを伝えることこそが君の仕事じゃないのか」と言われた。
「彼はクライミングの高度で専門的なことまで、みんな自分でやっていたのです。見せつけられた感じがして驚きました。また、僕がそれまで漠然と思っていたことを指摘されたようで、彼との出会いや、彼の言葉が僕を動かしてくれたようなものです」
「振り返れば障害を知らされ、この先どう生きていくのか先が見えなかった時にロービジョンケアの医師に出会い、自分にできることは何か、できないことは何かを考えはじめました。その後、エリックとの出会いによって、自分にしかできないことはこれだと確信していくようになりました」
障害を持つこと、それはある機能を失うことでもあり、人によっては夢や生きる希望までをも奪われるものである。しかし、新たな価値を生むという視点にも気づかなければならない。
人も社会も違いを尊重し、違いに価値があることを見出していくことが大切なのではないだろうか。
人に伝え、人と共有するためのクライミング
小林は視覚障害者の可能性を高めることを目的として、フリークライミングを広く社会に普及するため2005年8月に「NPO法人モンキーマジック」を立ち上げた。
その2年ほど前から任意団体として病院の医師を通じて視覚障害者にクライミングの普及を始めたところ、その活動には様々な賛同者が集まり「これで食って行こう」という覚悟を決めた。
「障害者になるまでクライミングは自分が楽しめればいいし、自分の仲間内だけが楽しければそれで良かったのです。人のためや社会のためではありませんでした」
「でも自分が障害者になることによって、クライミングを社会に伝えることが自分のアイデンティティになっていったのです。以前は自分のためのクライミングだったのですが、今では人に伝え、人と共有するためのクライミングになるまで成長しました」
「それに2011年に初めて障害者部門が取り入れられたイタリアの世界選手権で優勝し、今年スペインで行われた世界選手権でも優勝しました。誰かと競うことにまったく興味のなかった僕が、スポーツの世界で日の丸を付けて、表彰台の一番高いところに立って、君が代を聞くなんて以前なら想像もできませんでした。障害者は可哀そうとか、できないことが多くて不幸と思われがちですが、僕は障害を負ったからこそ得られた経験がとても多く、いまそこに幸せを感じています」
「次の目標は2016年にパリで行われる世界選手権に出ることです」
最後にこうメッセージを残した。
「クライミングは一日のうちに何回も失敗して落ちます。失敗して、失敗して、落ちて、落ちて、落ちて、でも努力することによって、必ず登り方が見つかって、少しずつ前に進めることをクライマーは知っています。努力しだいで必ず答えが手に入ることを知っているのです」
「クライマーは失敗して落ちてもまた戻っていきます。それって人生と同じだなと思うのです」
「僕はこれからもクライミングと共に生きていきたいと思っていますし、死ぬギリギリまで身体を動かして終わりたい。そういう生き方をしたいと思っています。勝ったり負けたりではなく、何歳になっても岩に登っていることが豊かだと思いますので、いつまでもそういう自分でありたいと思っています」
2014年11月28日(Fri) WEDGE Infinity