「『自己について』…あ、この字じゃない。『事故』に直さないと」
東京海上ホールディングスの本社がある東京は丸の内のオフィスで、若い男性が大きなヘッドフォンをつけて議事録のテープ起こしをしている。
軽やかなブラインドタッチで会話の内容を入力し、漢字の間違いを修正する姿は、ごく一般的な光景にも見える。パソコンを操作している彼が視覚障害者で全盲だという点を除けば。
音声を聞き取るのは理解できる。だが、全盲の視覚障害者が漢字の変換までどのようにしているのか…。記者はその光景に圧倒されてしまった。聴力を活用して入力した文字を読み上げ、耳を頼りに漢字の変換もできるソフトウエアが開発されているという。
「就職後に職能開発センターで学び直し、半年間かけてみっちり勉強しました」。仕事の手を止め、彼は得意気に話した。
彼は東京海上グループの特例子会社である東京海上ビジネスサポートの社員で、同社は100人を越える障害者を雇用している。「支援される立場から支援する組織へ――」を掲げ、東京海上グループの事務業務をサポートしている。前述のような議事録のテープ起こしや顧客からのアンケートはがきの入力作業、社員の印鑑や名刺作成とあらゆる業務を請け負う。
精神障害者や知的障害者も多いが、オフィスを見渡してもごく一般的な光景にしか見えないほど馴染んでいる。「障害があるとはいえ、できる仕事はたくさんある。真面目で、集中力は私たちを上回るくらい」と東京海上ビジネスサポートで人事総務部長と採用能力開発部長を兼務する桜井弘一さんは語る。
精神障害者が急増中
厚生労働省の障害者白書によれば、国内の障害者の数は約744万人(2013年、推計値)。国民のおよそ6%に当たる。内訳は身体障害者が366万人で知的障害者が55万人、精神障害者が323万人だ。精神障害者はここ10年で約1.6倍と急増している。
一方、民間企業に雇用される障害者の数は43万1000人(厚生労働省調べ。2014年の公表値。※障害者の数は重度の知的・身体障害者はダブルカウント。身体・知的・精神障害者のうち、短時間労働者は0.5人でカウント)。10年で17万人以上、実に67%増えているが、その数値はあまりにも小さい。
国も雇用対策を打ち出した。昨年4月の法定雇用率の引き上げがそれだ。事業主は、法定雇用率以上の割合で障害者を雇用する義務がある(障害者雇用率制度)。この法定雇用率が昨年4月に1.8%から2.0%へと引き上げられた(法改正前は従業員56人以上の企業。改正後は同50人以上)。
法定雇用率を下回れば是正勧告があり、それでも改善が見られない場合は公表される。企業は従業員数に応じて障害者を多く採用しなければならなくなったのだ。
障害者の雇用促進と継続は、重要な課題だ。しかし、利益の拡大を追求する企業にとって、障害者雇用は“ボランティア”というわけにはいかない。より戦力となる人材を求めて、新卒や中途採用市場が過熱している。
ハローワークを通じた企業の求人は2003年に8万8000人程度だったが、10年で約2.4倍の17万人に上昇。有能な人材の争奪戦も繰り広げられているという。
身体障害者に雇用が集中
民間企業で働く約41万人の障害者のうち、4人に3人は身体障害者だ。企業からのニーズが高いのは身体障害者だという。体が不自由な中でも、こなせる仕事の幅が広い点で企業が積極的に採用しているという。
一方、ニーズの高さから新規での身体障害者の採用は難しく、企業は知的障害者や精神障害者へと採用の幅を広げている。精神障害者の雇用が法定雇用率にカウントされるようになったのは2006年。当時は2000人程度だったが、2013年には2万2000人へと増えている。
ハローワークにおける障害者の雇用件数では、これまで最多だった身体障害者の就職件数を精神障害者が抜いた。人材紹介会社のインテリジェンスの子会社で、障害者雇用の紹介業を営むフロンティアチャレンジの大濱徹・人材紹介事業部ゼネラルマネジャーは次のように予測する。「今後は就職件数の差が拡大して2019年には精神障害者が7万9000件と、3万5000件の身体障害者の倍以上になる」。国は2018年4月から精神障害者の雇用義務付けを決定している。
精神障害者や知的障害者をいかにして戦力化するか。東京海上ビジネスサポートの桜井さんは、「適性に合った仕事を見つけることで十分対応可能だ」と語る。
コミュニケーションを得意としない人には情報処理の仕事を任せる。多動性障害など、じっとしているのが困難な人には社内を循環して資源ごみを回収する仕事を担ってもらうなど、現場での創意工夫が雇用の継続につながっている。
採用前線活況、青田買いも
「来春にもまた、就業体験で来てくださいね」
あるIT(情報技術)系企業にインターンシップ(就業体験)をしていた知的障害者の女性に、人事担当者は笑顔で話しかける。彼女はまだ特別支援学校の2年生で、卒業見込みは2016年の春だ。それでも、パソコン処理などの技術に長けた女性を学校から紹介してもらい、囲い込みをしているのだ。「正式な内定を出すのは儀式上、来年の秋。だが、それでは間に合わない。優秀な人材に早く声をかけなければ、ほかの企業に取られてしまう」と人事担当者は漏らす。
学校としても、就職率を上げて企業とのパイプを築きたい考えがあり、早期のマッチングが行われているのだ。
学校教育の考え方も変わってきている。東京都は、従来の特別支援学校とは異なる、新たな学校を設置している。東京都特別支援教育推進計画に基づき、生徒全員の就職を目指す障害者向けの新たな学校だ。
その1つが2008年に開校した永福学園(杉並区)だ。同校は、専門教科として「流通サービス系列」や「家政系列」を置く。流通サービス系では商品の入出荷や在庫管理などを学ぶロジスティクスコースや専用機材を使う清掃を学ぶビルクリーニングコースがあり、家政系列ではカフェやレストランでの接客や調理を学ぶ食品コースにホームヘルパーなどの資格を取得する福祉コースがある。1年生の時にすべてのコースを体験し、2年生に進級した際に自分に合ったコースを選択して学ぶ仕組みだ。
ほかにも、情報処理を学べるなど豊富な学習プランを用意し、就職を意識した学校になっており、今春卒業した学生の就職率は96%(4月末現在)。ほぼ全員の就職が決まっている。
企業もこうした学校に協力し、教育資材を提供したり、市民講座として授業を実施したりする。これはCSR(企業の社会的責任)という観点からの行動だけでなく、講座を開くことで有能な生徒を早期に見つけて採用につなげる目的もあるという。
企業の思惑も見え隠れするが、教育の現場や企業の対応の変化は、障害者の活躍の場が確実に広がることを意味している。
2014年11月27日(木) 日経ビジネス オンライン