花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

地域医療は何処へゆくの?

2007-02-20 03:17:06 | Weblog
戦争さえなかったら、

仕上がった論文をおいて
戦地に赴任しなくてすんだかもしれない。

我が子を,
3人戦地で失うことも無かった。

30人ほどの医師とともに
総合病院で外科医をしていた父。

院長だった外科医の父は
戦争で、
病院も,実家も,3人の愛息と娘を失った。

昭和19年、
軍医だった父は
「敗戦の直前、最後の連絡船で日本に帰還できた。」

東京の実家は空襲で焼け、
焼夷弾の雨の中を
「熊野の山奥に疎開した。」

あたり
7カ村は
「無医村」であり,

軍陣外科を学んで帰国した腕前は
イギリス医学の父の大学のおしえを
実践で磨き上げていた。

「村人に『神の手』と言われて慕われた。」

地域医療に
24時間ささげた報酬は
「ウナギ」「鮎」「マツタケ」「クリ」「蕨」「米」,,,と
尊敬と感謝の言葉だった。

激動の時代を
「外科のメスの腕」で生きてきた。

しかし、
地域医療では、お産、子宮筋腫,耳鼻科、眼科も全て一人で請け負った。

他科の患者さんを診察するのは
100倍疲れる,,、と
父は、しょんぼりつぶやいていた。

戦後14年目の春、

戦争を知らない息子を産み、
なくした子供を取り戻したかのように
希望に燃え始めていた。

戦後の日本の復興の為の
アメリカの最先端教育を受けさせるために、

村人の涙の引止めを振り切って,
生まれ故郷の東京に帰ってきた。

学友の応援で,東京に開業した。

ボロボロになって
患者さんに尽くす父の背中を見ながら,

子供達は、
無条件に引っ張られて,
医療人に育っていった。

昭和四十年、二月十九日、
最後の患者さんの手術を終えて、
麻酔の覚めるのを見とどけて、
「父は眠った。」

そのまま,,,今も眠りつづけている。

死ぬ1日前,,、
いいえ、、、
一秒前まで

「医師」であった,,,医療人生。

私は、父のことを忘れられない。

その,,、生き様が、、、
あまりにも、、、
「医師をすること」のみに生きていた姿だったので,,、

冬の朝、
「お父さんは55歳」のまま
毎年,
私に会いに来てくれる。

雪となり、吹雪隣、風となって,
ドアをたたく。

お父さん、
あなたのような、
「医師」を
医師でない、政治家や,企業が,駒として
行き先を決めるなんて、
いやな権力の時代が来たものですね。

どこか、間違っていませんか?

医師の地域医療は
一歩間違うと、

人生のろうそくを燃やしながら、
患者さんの健康を照らすことになります。

地域医療は
医師を早く死なせませんか?

地域の為にも
子供の教育や、
医師自身のための学会に参加できる環境を

廻りも考えてゆかないと、

こころある
「医師のひたすらな奉仕」に
おんぶに抱っこでは

地域医療は
医師自身が進んでゆけることが

心の報酬があってこそ、,,,
「お父さん,,、あなたは、何かを伝えています。」

長生きして欲しかった,,,
もっと, もっと、多くの患者さんの
健康の「光になって」
照らしていて欲しかった。