戦前に生を受けたせいか、、、
いつも、、いつも、、、戦争が起きないように
祈りながら生きてきました。
隣国は簡単に核実験と申しますが、、、
広島、長崎の記憶はいつも新しく迫ってきます。
子供たちが小学校に入学すると、
休日も、祝日も休みがもらえない夫に代わって
子供たちを、「長崎」「広島」に連れてゆきました。
私の兄弟も外国で3人亡くなっています。
敗戦直前まで、野戦病院で、
軍医として医療に従事していた父は
戦後の無理が原因なのでしょう、、、か!
54歳で永眠しました。
世代交代はいやおうなしにやってきました。
皆、戦争の後遺症を抱えて、
皆 がんばりました。
あの頃は、貧乏が当たり前だった。
携帯電話で何千年も話すことなど想像すらできなかった。
電話のある家が珍しかった。
テレビも白黒で街頭にあった、
唯一、ラジオから聞こえる
「少年探偵団」「赤胴鈴の介」
流行歌、、、が聞こえるパチンコ屋。
「君の名は」のマチコとハルキ、、、
娯楽も、食べ物も、衣類も、靴も少なかった。
農家のおばさんに「草鞋」の創り方を教わったり、、、
田植えを手伝って、
焼き芋、トウキビ、イチゴなどをもらっておやつにした。
戦争で男性が少なく、
女性は生活のため働いた。
楢山節孝?こんな字?だったかな?
順調な世代交代が出来なかった象徴のような作品でした。
年よりは、、、捨てられたのですね。
自分で象は象の墓場に歩いてゆくと申しますが、、、
外科医だった父は
忙しさの中で、、、
働きながら死んでゆくのだと
ふと、つぶやいたことがあった。
戦争でボロボロになった父と母。
戦後、もっとボロボロに働いて復興していった世代の父母たち。
像達が、黙々と像の墓場に歩いて行った姿に
父母たちの姿が重なる時がある。
どんなに誇り高く至誠天に通ずと思っていても、
「核」戦争になれば、
人間が人間として扱われません。
人間は単なる「元素」でしかなくなります。
平和な心で、、、人間をつずけたい、、、。