昭和38年ごろでした。
私は父が、最後の力を振り絞り
疎開先の山奥から
戦後の教育を、子供たちにうけさせねば、と
敗戦を期に「アメリカの教育が入ってきました。」
父は「イギリス医学」を学んだ外科医でした。
新宮のおじさんは「ドイツ医学を学び、
すでに、ドイツ式のレントゲンなど診療に使っていました。
激動の戦乱をはさんで、時代の波に翻弄され
戦地では「戦陣外科」を体得したまま
薬も、包帯もない、、、惨憺たる現場で
「神に、、、祈るしかなかった、、、」
そのとき、、、確かに!確かに!
戦場にクリストが現れたのを見た!
父は、唇を少し痙攣させていた。
後日、薬科大学を出て、医史薬学に興味を持った私に
東京大学の、医史薬学のリーダーでいらした「S先生」から
ヨーロッパの500年から健在中で今なお機能している病院など
イギリス、フランス、を中心に、パリ大学なども見学するのですが
参加しませんか?と
お誘い下さったのでした。
参加先のヨーロッパの歴史的な時代からの
とある著名な病院の「医療美術館」で
父が話していた戦場の野戦病院の現場に現れたクリストの絵画を
ここで、、、!私は観ることが出来たのでした。
父よ、、、貴方のであった戦場の医師と傷病兵とクリストの場景が
今、私は、胸につまされて、、、観ています。
医史薬史を実践していられる先生方は時空を超えて
私に過去の父の生きた時代を紹介してくださったのでした。
医史薬学はもうすぐ50周年を迎えようとしていました。
医学薬学を志した史跡を巡る旅は、筆舌に尽くせぬほど
「科学と魂の融合」
「大いなるスケールで
生命を見つめ続けた
繊細な高度な次元の努力の積み上げられた
神と共存した科学の足跡に出会いました。
イギリスの、セントメリーホスピタルでは
ペニシリンが研究していたアオカビのシャーレーが
院内に展示してありました。
狂犬病のワクチンや
エーズの研究で有名なので
どなたもご存知の
パスツール研究所では
パリの某大学の中心的スタッフの娘さんと
結婚したパスツールは
奥さん方の大いなるサポートで、
世界から名は知れていなくとも
よい仕事をする研究者を一同に集められて
大学という権威とは別に
世界にとどろく実験で
狂犬病も、エーズも
医学の手の中に握りこんだのでした。
昭和38年ごろ
父が、、、「がんセンターが出来るんだよ!」
医師として、「ビジョンのある計画だ!」
医者の卵の兄に
熱っぽく言っていました。
そして、私が大学中に父は亡くなりました。
粗悪なレントゲンは父の手に潰瘍を作っていました。
父の突然の死で、
弟は、国立一本の受験で千葉大に合格しました。
その頃、市川平三郎先生の
二重造影が、胃の中にガスを入れて
立体の臓器写真を写すという、センセーションを起こしました。
我が医療施設にも、回転する二重造影を出来るレントゲンが
400万前後で設備されました。
採算度外視の夢に
万難排して医学の黎明期の
ご来光を信じました。
崎田先生の胃カメラを扱う胃の中のカラー写真を
はじめてみたときは、
興奮してしまいました。
医療費や採算を度外視して
医学の黎明期の波に乗ろうと
志を持った「弟は、医局を飛び出して」
「無給の研修医として、
がんセンターの医学の夜明けにのめりこみました。」
医局を飛び出して、、、夢を追いかけて
もう、、、後ろは振り返れない生き方でした。
最後に、、、米粒一つ無くなり、、、
がんセンターを去らねばと、、、涙が出たそうです。
そのとき、
当時としては斬新な手技であったのでしょうね!
CTの開発部隊として、
国立のささやかな月給が支払われることが知らされ
彼は、ひたすら、手遅れにならない前の患者さんを救いたいと言って
CTの改良に、東芝の技師さんらと
日夜、、、廊下に寝泊りしながら、日本の医療の夢に駆けたのでした。
医師の多くは家庭を振り返る時間は無いと思いますが
弟は、外科の医局時代、
手遅れになっては手術も無力。
何とか、痛みのない治癒を目指して、
がんを未然に防げないかと、、、いつも言っていた。
人生を「がんの診断の研究に捧げた弟は、私たち兄弟の光でもありました。」
一般病院の外科医をしていた若き日の夫のところに、
学会で、同僚とともにやってきて、二人とも
夜明かしで夫とともに医学談義や、趣味や夢やビジョンを語り明かし
布団も敷かないまま、話疲れて、
床で、ソファーで、クッションを抱えて
夜明かし談義でした。
彼らが帰った後、
夫は、目からうろこが落ちた!
こうしてはいられない、、、
大学にU-ターンしてしまったのでした。
月給は三分の一になるし、
夜は土日しか、まともに帰ってこないし、、、
いきなり大阪から「国内留学で、しばらく帰れない、、、」
とんでもない電話一本です。
やがて、医局の世話を筆頭で、何でも引き受け
大学の講師になった頃、
弟のように、若き頃、出来たばかりのがんセンターに
人生の夢をかけてのめり込んだ医師は
ほかに追従を許さない
「がんセンターが」世界に向けて日本の医療が
患者さんを、築地まで通わせていました。
柳田邦男さんが
当時の様子を
「がん回廊の朝」「明日への挑戦」などの
単行本に書かれています。
アフリカ大陸の夜明けのように、
「がんは早期発見される時代に突入」していました。
パリ大学でも、ウエルカム医史博物館でも
イギリスの500年から今なお健在な病院でも
医学の発展の足跡は大切にされていました。
教会が庭にあった病院を見学しましたが
ここ2-3年のがんセンターには
政治が同居して、
スタッフがコロコロと
まるで、一人の人間の意志で
医学以外のセンスで、かき混ぜられているように
行くたびに院長や先生が交代しています。
私は5年ごとに検診を受け
そのデーターを
がんの発展に使っていただけるようにと
アンケートなどにこまめに回答してきましたが、
激動のがんセンターの先生方の入れ替わりに
不安になり、忙しさも手伝って
今は傍観者のように
外側から見ています。
横浜の博物館になっている軍艦にも似て
検診研究センターになっている建物が
市川先生と、若き医学の夢を追って燃えていた弟の出発点だったと
団塊の世代! 戦争を知らない世代!
日本の立ち上がりを見せてくれた医学!
築地の国立がんセンターは、
政治や、法学部の偉いさんが、学問で切って捨てるのは
どこかちぐはぐな感じで、患者の私は傍観しています。
医師たちのビジョン
医師たちの夢
医師たちのひたむきな努力を支えた東芝や
東北大学の先生や、世界の巨匠たち、
メイヨークリニックで学んだ弟
日本ではありえなかった
総合的なスピードの管理された技術を
素晴らしい専門性に到達した
「心と技とビジョンと夢」で
築地に患者さんたちの
早期発見!
命の光を放ったのに!
頑張る人たちを見ているだけで
何もいらなかった、、、
黙々と40年間
雪掻きをしながら
孤独な冬も乗り切れた。
さわやかで、頑張りやで、理解されなくても、
視点を広く持って、苦笑いしながら、
彼は彼の道を行くだろう!
世界に通用するコロンブスの医師たちのメッカだった
国立がんセンター
権力や、政治や、学閥で
人事がコロコロと動かされて、
貴重な発展の足跡が見えなくなってゆく。
壊してしまってはならない医師たちの夢は消えはしない。
人間が、どんな精巧なロボットよりも、
しょっぱい涙を流せることを
政治家は知っているのだろうか、、、!
ありがとう、、、私の卵巣腫瘍を見つけてくれた先生!
おかげであれから、、、病気知らずの70歳が見えてきました。
来年は、、、先生は、、、もう、、、がんセンターには居ない。
政治家が介入する日本の医療は、、、どこに行くのか?
選挙が老人の票が多いだけに、、、医療はかき混ぜてほしくない
結界があってこそ、、、と思うのは、
戦争から立ち上がった緊張感が続きっぱなしの
団塊の世代の姉だからでしょうか。
人間だから、、、命は生き物だから、、、刻々と変わる状況!
ピアニストは、満員の聴衆の中で
たった一人の、、、わかってくれる人のために
渾身の思いを込めて演奏する、、、、
ピアニストの母
がんセンターに人生をかけたその息子
たった一人、解かる人のために。笑顔で
前進あるのみ。