アサドラ
平均すると7時ごろ出勤の夫を見送り、ゴミ出しや、そこで出会った近所の人たちと
言葉を交わしたり、カラスを追っ払って、散らかしたのを掃除して、やれやれ、、、
チャンネルを押すと「ごちそうさんのテーマソングが聴こえてくる。
それなりに、若返ってNHKの隠し味を学びつつ、朝のリフレッシュに、15分間は
魔法の時間です。
思いっきり豊かな時代、戦争、関東大震災、そして又、戦争と、生き残ってきた
父母に抱えられて、防空壕で生まれ、母乳も出ない精神状態の母から、ヤギを
飼う疎開地で、ヤギの乳に育てられた自分の時代と、大きく違う飽食の画面に
味も匂いも伝わってこない食卓の料理を、ぼんやりと見つめながら、
恵まれすぎるような、食卓に言葉は出ない。
(^^!
華のような、メイコさん、ノリコさん、意地悪な姉さん、
極楽トンボのオカアサン!
要に、ごッついハンサムで、イケ面で、ムードメーカーの
スイートな東出さん扮する西門家の嫡子。
華やかで、味があって、万華鏡のように、画面がくるくる廻る。
軽いのか、重いのか、関東大震災の被災者の炊き出しなど
メイコのまっすぐな自己中な価値観が、
被災者の気持ちに「寄り添うことが出来ない場面」は
しみじみと、人の心と共鳴することの難しさを感じながら、
共通点を探すメイコの努力に
ひたむきな21世紀の若さを感じました。、
昭和20年代、疎開地で、7箇村「無医村」に囲まれた熊野の山奥で
医師をしていた父の元には、村の人が使えるように、洗濯機も数台、
モーターで水を汲み上げる井戸、七輪がズラーと並んだ土間、
薪と火吹き竹で米を炊く「大かまど」、その日の食べ物にも困る
村の未亡人が炊事場のおばさんとして、私達に「高菜のめはりにぎり」
を握ってくれた。、、、おいしかった!。未亡人には3人の子供がいて
帰り際。母が「めはりにぎり」を竹の子の皮に包んで、毎日渡していた。
バターは無くて、「マーガリンが四角いブリキ缶で医療施設の我が家に
配達され、その日のうちに、村の人たちで分けてしまった。
炊事場のおばさんは、缶に残ったマーガリンを丁寧に集め、
「奥さん、これ、、、もらって、、ええかの?」というと、
母は、「ごめんね、残りもので、、、」と。寂しそうに、言っていた。
軍医から、日本帰国を許可されるまでに、母は3人の子供を外国で亡くしていた。
遺骨も、外国の地で眠っている。ここにたどり着いたとき、一粒の米も無く
父の「外科手術のとき使う、鋏と、コッフェル等が唯一の宝だったという。
村の精米所に、
「お金はそのうち間違いなく払いますので、
米をわけていただけませんか?」
眉毛が米ぬかで真っ白になった精米所の叔父さんが、
「いいですとも!こんな山の中の無医村に、東京の学校を出たお医者さんを
つれてきてくれたんだ!、、、この俵、持ってってください!」
お米は久しく食べてなかった母は40キロに足りない体で、俵を抱いて
座り込んでしまったそうです。
「糠が、、、目に入ってしまって、、、、と、、
ボロボロと涙が糠を流し去ったといっていた。
幼い頃の写真は、私も、栄養失調のように細い。
しかし、村人は、鮎や、うなぎや、野菜を、「診療費」の代わりに
届けてくれたおかげさまで、七輪で焼く川の恵みのおかげで
少しずつ、栄養失調は直っていった。
それでも、村の中には、その日の食事に事欠く疎開者であふれていた。
「おまえんちは、医者だから、美味いもん喰っとるやろう!」
青洟をたらしたガキ大将から、
ボロボロのわらじを投げつけられたこともあった。
「人の見ている所で、食べ物を思い出させるような事をしてはいけません!」
母は被災地から帰ってきたような疎開地の人の心を察していたのだろう。
それでも、私は、恵まれた医者の娘と思われていたのだろう、
2歳半のとき、十代の女性に、囲炉裏に落とされ、右手の手のひらが
くっついてしまい、左効きに育っていた。
食べ物の恨みは恐ろしい時代であった。
外科医の父は、京都大学の、教授に山村までお越し願い、一ヶ月も
お泊りになって、指導してくださった先生のおかげで、
娘の私の手を、開いてくれました。
17歳になるまで、7回の移植手術を受けました。
東京に帰還できてからは、警察病院の大森先生が「Zカット」という
新しい方法で、最後の仕上げの指の形成をしてくださいました。
母も、私も、人前で食べなくなったのは、こうしたいきさつがありました。
医師の夫人や子供達は、とかく、「得をしているやつら」という
レッテルの中で、生きねばならない時代でした。
しかし、舞台裏は、
小学校の先生が、生徒に弱みを見せられないのと同じで
「命を預けてもよい」と患者さんが思えるような
威厳と、信頼と、品性と、哲学の中で、
総ての貧しい気持ちにも寄り添うことが大切と諭され、
父母は、私を囲炉裏に落とした女中さんを、叱ることも、
解雇することもせず、村人に受け入れられてゆきました。
祭りの日には下戸の父は、お酒を勧められるのを避けて
雲隠れしていました。
母は、モロブタいっぱいの握り飯を、何段も重ねて、みこしを担ぐ
若衆に、炊き出していました。
小学校には、音楽の時間、ピアノを教えに行っていました。
それでも、家族が食事をするとき以外は
母の口が動いているのを見たことがありませんでした。
今、日本の「ごちそうさま」を
食事に事欠く後進国や未開の奥地の貧しい人たちが見たとしたら、、、
どんな気持ちになるのか?想像もつきません。
飽食にあふれた食い倒れのような番組の中で、
NHKの伝えたい「人としての最大公約数のような、、、食べること」が
実は、もっとも、残酷な妬みをもたらした戦後があることを、
私は、体に残る植皮の後をさすりながら、
自分の痛みは感じる時間のない、「外を整えて、干渉しない」
コミュニケーションの下手な人生を、歩んでいます。
誰が悪いのでもありません。
「貧乏」という条件が作り出す
「妬み」や、「いじめ」や「疎外」は
大きな時代の大河のの中で、
流れに乗れなかった小枝や、
ゴミのように軽んじられた孤独が、、はけ口を求めて、
身近な、、、よく見える朋友にも出てしまう時代だったのです。
目指せ東大!、、、受験地獄の時代を流されて、青い鳥を求めて
さまよう若者に、突破口を与えたのは
被災地で立ち上がった、少女だったかもしれません。
TV番組では「医師」の家庭の夫人など、
面白おかしくドラマ化していますが、
現実と、あまりにも違うので、私は、おかしくて、笑いながら
よく観ます。
「命」をいつも見つめてきた医師のそばで、
ちぐはぐな時間に食事を一人でトル主人と、
「病院漬け」の医療人は、15分で昼ごはんを済ませます。
私も、病院に薬剤師として勤めた頃は、
昼休みのカーテンを閉めても、
10分後にはカーテンを揺らす患者さんに、
弁当を全部食べきれない昼休みを過ごしたものです。
大阪、、、食い倒れ、、、
人として
最高の贅沢を許されている不思議な街と思います。
ごちそうさん、、、とても面白いのですが、、、
戦中に生まれた70歳は
複雑な気持ちの、泣き笑いで、見ています。
長谷川利行の絵のような、すごい時代でしたからね。
彼の歌集を見ていると、精神の壊れそうな境目を歩きながら
東京大震災の街を、さまよってます。
食べれる、、、これ以上の贅沢は、、無いんではないですかね?!
垢抜けした、ごっつい素敵な青年と、まっすぐなメイコさん、
紀子さんがとても可愛くて、ドラマは毎日が待ちどうシイですよ。
なぜか、、、命も70歳になると、時代の風景を回顧したくなっただけです。
もう、二度と戦争を起こさないでくださいね!
国会は一丸となって、平和を護ってくださいね。
世界で、初めて原爆が落ちた国なんですから、
世界の平和を引っ張っていけると信じています。
ごちそうさん、、、という言葉自体、平和が条件の言葉のように思えるのです。