花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

NHKの太宰治の人間失格裁判の番組を見て思ったこと

2016-06-10 10:39:03 | Weblog

立場のあるエリートばかりが円陣になった裁判は
裁判官自身の人生観と言う

避けられない自我の色眼鏡の景色を紹介されているような気がした。

アカデミック的には、勉強的には、どなたも教授であるため
私のような、無冠の孤立した主婦は
本来なら、発言を許されないと思いますが、

色眼鏡を持たない、単なる読者の主婦も、円陣の片隅に入れて
感想を述べる席を設けると、、、王様は裸だ!と。

あきれた素顔の太宰治をキャッチしていたかもしれませんね。

横光利一の本に

「蠅」と言う作品があります。
又、覚書には「笑いって、、、何なんだ?」と言うページがあります。

大阪のお笑いとは、、、全く異質の笑いをいいあてているな~~~と
若き日には、、、感心して読みました。

太宰治の「人間失格」には、、、私は笑いがあると思いました。

道化が講じて

人間そのものを道化の神髄に浸って生きた、
人間失格に生きることそのものが、、、太宰の道化であったと、、、

精神病院に入ったからって
所詮、診断も、判断も「人間業の範囲じゃないか、、」

社会システムそのものを、
だるまの帯どめのように
転がして、、、遊んでいる

孤独と言うおもちゃ。

非合法活動と言うおもちゃ。

自殺ごっこ、、、。

純愛ごっこ、

自虐ごっこ、、、

全て、どれもこれも、やり散らかしの申告ごっこ。

之が、人間の丸ごとを自意識高く鳥観して

孤独を勝手に孤高ごっこに道化する。

パラドックスのような意見を申し上げてすみません。

でも、私には、
太宰治の「人たらし術を最高に駆使されても」

私なら、好きになりません。

でも、人として、
神の前にも、仏の前にも
あまりにも不完全なうちに花咲こうともがく

未熟としか表現できない幼さを

母親の心のように、、、涙で見守りながら、

「あんたは、なんで、、、一人ぽっちなの。」
左手と右手が。同格に合わさってこそ

音、心、五感、痛さも、快さも発祥し
自分の存在に気付くのに。。。

あなたは、片手で。。音が出ると信じているのね。

一人ぼっちで、道化の世界は、
あなたの存在ではない、、、

存在でない「人間界を道化する」

人間失格ではないけれど

かたくなに「愛」を知ろうとしなかった

俺俺俺、、俺。

人は、、、俺を捨ててこそ、
初めて、、、

王様は裸であると、気が付くのではないでしょうか。

大切な「気付き」の光が差し込んでくれなかった

無垢を演じた、、、無垢でなかった太宰だと。

中学の時、小岩一中の前の図書館で見つけた
人間失格の、、、幼い読書感です。

之は、自分のブログに書いている
私個人の日記の
「太宰の感想」です。

百万の人間に 百万の太宰治の感想があれど、、、

否定は一切いたしません。

しかし、、、

自殺は人殺しと同じで、
「じぶん」という人間を殺すのですから

罪があると思うのです。

罪にならないためには

「精神病を患う入院患者」になって、

自分の限界の「人間そのものの道化」に挑んだと

考えられなくはないと思いました、
太宰にとっては、かかわったものすべてが
自分の分身として、道化の道具に過ぎなかったのではないだろうか。

狡猾さも、自覚しないながら、
太宰に住み着いたあくまではなかったのか?