花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

BS朝日の5番を9時から楽しみました、そして余韻の中で朝を。

2018-09-16 08:06:57 | Weblog

昼間はラジオを聴きながら家事をしているのですが

3時近くなると、「相棒」を観ながら、夕食の下ごしらえをしていました。

、、、、コマーシャルが結構なタイムで入りますので

夕食キッチンには、立ったり座ったり、手を動かしたり、、、

良い運動をしながら、杉下さんの、、、そして、若い息子のようなタレントに

元気をもらっています。

それ以外は、テレビに振り回されるのが、わかっているだけに、

番組は、たまたま家事が途切れたら、あちこち検索して、

面白そうに思えるところで、落ち着いて、観始めます。

後は、深夜のBSのNHKを楽しみにしています、

ところが、、、、今日だけは違います。

あの、、、、戦後の貧しかった時代に

軽井沢を舞台に、

テニスの青春ロマンが、パ――と目の目を明るくしました。

戦後の皇室のご苦労は、庶民の私たちには計り知れない深さであったことと思います。

教科書には、人間宣言されて、玉音放送で、終戦に導いてくれた昭和陛下。

御爺ちゃんも、お父さんも、母も、玉音放送が忘れられないと言っていました。

日本国民は、人間が、人間であることの貴さを

原子爆弾の投下された広島と、長崎から、目の当たりに考えさせられました。

木っ端みじんという、、、爆弾の破壊と違って

人間を、元素のレベルに分解してしまう原子爆弾は、鬼です。

玉音放送の、陛下の一言が、日本が地球の、平和の使者として

原子爆弾や、水素爆弾、化学兵器を使う戦争は

地球を分解してしまうことを伝え、

世界の森羅万象、人類と地球の命の永遠の為にも

平和の使者となる役目が、広島長崎をもって、

日本に課された天命と思います。

昭和天皇陛下の、人間宣言の貴さは、万民に終戦を納得させたと思います。

それからの昭和天皇様のご苦労は、

祖父や、父や、叔父さんや叔母さんからも聞きながら育ちました。

戦争中、大陸で3人の子供を亡くした母は、

私が小学校3年生ぐらいになったときでした、、、、こんなことを言いました。

戦争で、子供を亡くしたとき、、、次々と、、、3人、、死んでいったとき、

自分も死のうと思ったことが有ったのよ、。。。。

でもね、、、生き残ったお兄ちゃんの為に、、、

孤独にすることが出来なくて、

とうとう死ねなかった、、、。


あれから、お父さんが私の故郷に疎開してきてくれて、、、

子供時代に楽しかった思い出の場所もそのままで、

だんだん周りから元気を注がれて、、、

戦争で亡くした子供たちを、取り戻そうと、、、

戦争を知らない子供を授かったのよ。

でもね、、、天真爛漫に田舎でのびのびと育って行く子供らを見ているとね、、、

死んでしまった子供たちが、、、

むしろ、、、幸せになっていると思えてきたのよ。


高校も、大学も、専門学校もないここで、

天真爛漫に育って行く子供らが、

このまま大人になったら、、、

どうやって、、、生きてゆくのだろうって、、、???


毎日自問自答するようになったのよ。


昭和天皇陛下の敗戦後のご苦労や、

皇太子殿下の、神々しいまでの孤高な、、、孤独を思うとき、

新しい戦後の時代に生きる貴方たちが、

新しい日本を支えてゆかなければと思うとね、、、

日本にはアメリカに追いつき追い越す次代の若者の教育が

どんなに大切なことかと思うと、、、

お母さんはね、、、あんたたちが、、、

知らぬが仏の孤独の中で

社会を知らないで大きくなってゆくことが、、、コワイのよ。


このままでは、日本の敗北は教育の敗北になって、、、

生きてゆくのに、かわいそうな未来に向かってしまう、、、。


幸せで、天真爛漫な生活を終わらせて、

40を過ぎてから、

生存競争の激戦地区の東京に家族全員で戻ってきました。

父の実家だった文人通りあたりは

もはや、誰のものか?わからなくなって

個人が戻れるところではなくなっていました。

疎開していた田舎から、、、下町の、、

まだ復活しきれないバラックの残る東京に

私たち家族が戻ってきました。


理由は要らない、、、

日々勉強に頑張り、戦後の復活に頑張る毎日でした。


ようやく、、、世の中も戦後の新時代が始まったとき、

本当の日本の復活の鏑矢が真っ青な空を飛んできました。

昭和天皇陛下のご長男がゆえに、

そのご苦労と、孤独は庶民にははかり知れない忍耐の日々であられたと

推察しかできませんが、

孤高な静かな皇太子殿下の恋が報道されました。

日本中が明るくなりました。

皇太子殿下自らが「長い電話をおかけするという、、、」

週刊誌も、新聞も、皇太子の恋、、、世紀の恋、、、と

活字が躍っていました。


あの頃を境に、、、日本は団塊の世代の頑張りが目立ち始めました。

「もう一度、、、日本!!!」

皆が元気になりました。


軽井沢の恋は、

ミッチーブームとなって私たちの青春の希望となりました。

母は、、、

この戦後のドサクサの中で

民間に、あのような素晴らしい女性がお育ちになっていたなんて

すごいことね~~~、、、と

親しい知人と笑顔でうなづきながら、、、

すごい事よね、、、

皇太子殿下が恋をするお相手に選ばれた女性、、、!

どこに行っても、

美智子様の話で

全ての時間が明るくなりました。


皇太子殿下の、

お立場が故に孤高で、お独りというお姿に

青空から舞い降りた真っ白な鶴のようなお姫様が御そばにいつもいらっしゃる!


母の顔は、日ごとに明るくなりました。

そして、、、

はじめてのお子様が男子でいらっしゃることを

TVで知ったとき、顔中が笑顔になって、、、大喜びでした。


私は、美智子妃殿下という、

戦後の新しい日本の母である女性に

心身共に日本人であることの品性と、御強さと、

神々しいまでの天地の力を感じながら

ただただ、、、感謝、、、という表現しか思いつきません。


日本は女性がしっかりと、

次代を創る男性を支えてゆくことの大切さを

存在そのもので、伝えてくださる国の母です。


平成という平和な時代を生きてこれたのも、

陛下の御心そのまま魅了された女性が

国民とともに生きてくださる母として

人生をささげてくださったからだと、、、

感謝で、今日はTVを待っています。


これからは、ご自愛くださり、

長く長くご壮健でいらっしゃることを

祈るのは、、、、

平成に生きた私たちが、平成が移り変わっても


ご壮健なお姿に心身共に支えられてゆくことが、願いだからです。

これは、公開していない日記です。

畏れ多いことながら、、、

一市民が、皇室の皇后さまのことを記すことは

家族だけが見ているブログだから、出来ることかもしれません。

離れ離れの弟や兄弟、息子たちが見てくれる

限られた個人的な日記です。




     テレビ番組の余韻に酔っています。

9月17日4時25分です。

東の空がうっすらと

山際から、、、空の色が、、、すこしあかりて、、、と、いう、、、ひと時です。


深夜まで、、、余韻のつづいた、、、平成も

過ぎてゆくのかと思うと

万感の思いで、両陛下のお姿に照らして

時の速さに驚きながら、

私自身も生きていた平成時代を

平和に向かう時代と受け止めました。



ドイツ語に訳された「御歌」

ドイツ語の作品集!

私も手に取ってみたいと思いました。

ハイクラスな外交の心が

日本の文化の御歌で

心から心へ、胸から胸へと

世界の海をヒトッ飛びに伝えられてゆく「日本の心」

皇后さまというお立場の、

誰よりも日本の国民とともに歩かれた御命の

輝きの瞬間が文字となって

お心の歌集となって、

ドイツで出版されていることは

万感の思いです。

真夜中の北海道は

余震が3~4に続いていますが

両陛下の被災地をご訪問されるお姿を見ながら、

感謝とともに、危険なので、どうぞ、、、これからは

両陛下がご壮健でいらっしゃることが、

私たちの昭和生まれの生きる力となりますので

皇居にて、安全にお過ごしあそばされることを

祈らずにはおられません。

若かりし日の、はじめての沖縄で

美智子様が

とっさのアクシデントに

陛下をお守りしようとされたとっさの反応に

国民の心は

日本は、、、もう、、、大丈夫!と思いました。

命を懸けて、日本の戦後を

未来に向かって陛下とともに国民とともに

歩んでくださる

国の母のお姿に接し、、、

その映像は、戦後の庶民の母たちへの

言葉にも、歌にも表すことのできない

衝撃の啓蒙となりました。

ドイツ語の歌集は

美智子皇后の光だと思いました。

素晴らしいですね、、、日本の感性の筆の文字は。