花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

紅葉の季節

2019-09-21 05:31:28 | Weblog

男の兄弟の仲の紅一点

結婚してからも、、、男の子だけに恵まれた。

孫が出来て。手放しの感動の中で

男の子の孫。

 

お嫁さんは、高校時代から寄宿舎に居たと聞いているだけに

独立心の強い

美人ではあるが、

姑は初対面から、蚊帳の外。

主人は、大切な自分の男であり絶対に信じているが、

お母さんは、主人のお母さんであって、

主人に言われれば、一緒に出向くが、

単独では付き合わないという

初めから、遠巻きにしていて、

孫を前面にして、賢く後方で付き添ってくる。

たぶん、、、女性の社会で女性ばかりの職場の長かったせいなのだろう。

姑は「煙たい職場の上役の老女」に見えてしまうのだろう。

私も、育った環境が

若い女性の従業員が23人いるという自営業の

やがては娘という存在は嫁に行くだろうという、、、

蚊帳の外で、あたらぬ、さわらぬニコニコと優しかった皆。

居ても悪くないが、、、男の子を一人前にせねばという責任上

女性の私は、短大を出して、嫁に出すという昔の親の癖。

クジャクの羽をつけたカラスではなくても

カラスの羽は黒くてそれなりに本物ではないか!。

カラスの鳴く声がうぐいすのようであったら、

東京のインコの群れのように

カラスの群れが幅を利かせていたかもしれませんね。

好きな鳥はハヤブサのような野生の鳥が素敵だと思っている。

私も、野生の鳥のように、自分で生きる力が欲しいと思っていた。

自立するための努力で精いっぱいだったから、

従業員とは、

挨拶だけ、

早朝に、

自発的に、、、、皆が嫌がる「ゴミ捨て」だけはこまめにして

大学に通っていた。

帰りは夜間の辻クッキングスクールで

料理を習って、食事の代わりにしていた。

所属部隊に見えて、

未来は分かれる運命の人たちには

深入りしない癖がついていた。

母も、職業婦人であっただけに

頼まれたこと以外は。プロの眼からは邪魔である以外の何ものでもなかろうと、、、。

遠巻きにして、、、見守っていた。

父が亡くなった翌年、高野山に行った。

〇武峯雄さんという御坊様が

墨絵の在る歴史の深い経年を感じる襖絵の前で

小坊主の頃、、、私の母と出会って

人生の修行の始まりの掲示を神仏からいただいた思いがしたと言って下さり

見事な達筆で、半紙に○○不思深と読める達筆すぎる字を書いてくださったのを、

今も大切に掲げていますが、、、もう亡くなられて世代が変わっていますので

私はしばらくは高野山にいっていません。

素晴らしく、霊感の強い御坊様でした。

男の兄弟たちは、実に母を思う人たちばかりで、

長男は、母のピアノを教えるための環境を絶対に守ろうと、

採算が合わなくても、医師に工学を支払って

自分が「がんセンターの崎田先生のもとに研修に行く間は

自宅の開業を、依頼して、母を守っていた。

下宿していた次男は、

「母が、、、よもやま話の電話の会話の中で、、、

≪ストーブが壊れたのよ、、、寒いよね≫」

思わず言っただけであったというのに、

夕方チャイムが鳴るので出てみたら、

下宿先から、

次男が、ストーブを届けに玄関先に立っていて、

母はびっくりしたそうである。

 

あんなにいっぱいいた居候も、

父が亡くなると、、、一人も居なくなった。

 

しかし、、、

あの時の居候の3姉妹は、電車で1時間とはかからない所に住んだだけに、

何かと訪ねてきていた。

母のピアノ教室のコンサートには

家族で来てくれていた。

二番目の女性は結婚式のすべてを母と相談していた。

女の子が居るのと、、、変りがなかった。

実の娘は、母の影のように

地面に張り付いて、姿を消した状態で、

かろうじて、、、娘の役割を果たしていたつもりであった。

3姉妹は、、、ほめ上手で

一番上の女性は、美人で、おしゃれで、社交上手で、、、

「おばちゃん、、、おばちゃん、、、」と

何かと、母のそばに寄ってきていた。

 

3姉妹の華やかさには圧倒されるものがああり

私は、ソート後ろを通り抜けて、その場からは去っていたので

個人的には、深く話したことは無い。

ほ~とため息が出た。

二番目の女性は、私の通っていた高校に編入したいと言って

転校前の高校では優秀な成績なので面接だけが課題となった。

彼女は、

伯母ちゃんが父兄として、私の保証人になって面接に来てくれたら、

合格間違いないと、気の進まない母を説得して

高校の面接の保証人として同席した。

もちろん合格して、彼女は上機嫌で

伯母ちゃんの娘になった!とその日はハイテンションになっていた。

確かに、、、東京出身の父と、

東京の国立音楽大学を卒業した母は、

よそから東京入りした3姉妹にとっては

渡りに船どころか、、、渡りに指定席付きの船だったかもしれませんね。

若き頃に東京都の高校で先生をしていた時代の教え子が

時々母を訪ねてきていた。

そのころ、3姉妹の長女が

居候とは真逆の。。。「玉の輿に乗って結婚した。」

舅も兄たちも全員医者で、大きな病院を経営している東京人の若手医師。

いつしか、我が家からは3姉妹は出て行った。

夫が医師、

舅も医師。

兄たちも医師。

3姉妹は、、、いつしか強い方へと去っていった。

間もなく三姉妹とも、国立大学の法学部のお婿さんに囲まれて我が家にやってきた。

結婚式に父と母を招待していた。

従妹の私には、前を須藤りして、

振り返り際に

「伯母ちゃんに結婚式の挨拶してもらうのよ、、、(^^」と言って去っていった。

母はすでに未亡人になっていたのに、、、

取り巻きは増えるばかりであった。

未亡人になっても、、、

いまだ亡びぬ妃とどころではない。

二台のアップライトのピアノでお弟子を教えていたのも

父が亡くなってからはグランドピアノを自力で買った。

コンサートには、、、国立音楽大学時代の学友が教授になっていたことから

生徒の実習を兼ねて、

コンサートには未来の音楽家のプロの道に精進中の学生が加わっていた。

現役の時は、母は東京都の合唱コンクールに

生徒たちを優勝させたという、、、凄腕の音楽教師だったと

国立の母の同級生の方々が、娘の私に教えてくださった。

コンサートの夜は、遠くから来ていた母の同級生の音楽家の皆は

グランドピアノを置いてある部屋で、

沖縄の泡盛に、角砂糖を入れて、酔っぱらって、、、笑い声が

明け方まで続いていた。

大學ではトロイメライしか演奏しないという公家さんが同級生だったそうで

トロイメライの君の話や、

べ―トベンの運命の曲の出だしの音符の話や

ショパンは最高だとか、、、

朝まで盛り上がっていたことが、、、甦る。

直純さんが生まれっ時には

柳行李に素敵なタオルにくるんで、日のあたる所に移動させながら

育児を楽しんでいた話や、

芸大の教授の奥様になっても、気軽に友達付き合いをしてくれたことなど話しているうちに

後日TV時代になってから白黒画面で

NHKでコントラバスを演奏していた

友人だという音楽家がやってきました。

松田ですが、、、

取り次いだのは私でした。

私のような、、、理科系の娘が居ても

出番はありませんでした。

母は、一人でも大丈夫だと思いました。

私が、、、母と条件を交わした外科医と結婚して

一人で開業している兄の相棒を連れてくることが

役割のように思えてきたから、、、、

母は教祖様のような指導力の権化でした。

付き合ったことも無い、、、外科医。

総合病院で薬剤師をして自立していた私が、、、急きょ退職して

奨学金で大学院に行っている外科医と

結婚することになったから大変でした。

 

北海道に嫁いだ私は、、、ほとんど里帰りの必要が無かった。

60歳を過ぎてから、母が亡くなった80歳までの間に

70歳ぐらいのとき、、、

一度だけ、母が札幌にやってきた。

 

部屋には次男の兄さんがドイツ留学中に手に入れたという

100号の「羊飼いの少女というレプリカ」を気に入って掲げていた。

母は、、、言っていた。

「(次男)あの子は男の子だけれど、

この絵の少女のようだね、、、」と

留学中の次男には実に40通もの手紙のやり取りをしていた。

通訳試験に合格していた兄は、

スイスの日赤などでアルバイトをしながら、

4年間ヨーロッパに居たらしい。

帰国したときはルフトハンザの外人が日本支社に勤務要請に来たりしていたが

母は、自分の小さな夢だからと「薬局を新築して、店長に据えてしまった。」

私は老女になっても、背筋がピンとしている母に

「もう、、、外国にはゆかせたくない,、、と本音を語った。」

子供を自分の私物と思うのは、明治生まれの女性なら当たり前であるとは思うが、、、

大学教育を受けた、モダンガールのはずの母が

次兄を薬局に閉じ込めてしまったのには。絶句した。

私は、、、ルフトハンザに勤めた方が、、、面白い人生だったと思っている。

後日、、、兄に本音を聴いてみた。

次兄のお嫁さんになった薬剤師の女性も、母が知人の医師夫人を仲人に

母が決めた女性だった。

もう、、、言う事は無いほど、、、

指導力、、、在りすぎで、、、

人間性無視かもしれまいと、、、思う反面

逆に励まされ菜がら、、、羊ケ丘の羊を見に、母を愛車に乗せて

案内した。

「お母さんは勝手だとおこっているでしょう?、、、

お父さんが安心するように、かってに話を勧めたけれど、、、

お母さんは、間違っていたと思う事もあるのよ。」

私は、、、返事のしようがなかった。

間違っているのかいないのか、、、人生の山登りは

どの山登りも労力は同じだとおもうけれど。

山頂まで行ってご来光が見えるかどうかで、、、

間違っていたのか、正しかったのか、、、。

今の段階では、私にも、母にも解りませんでした。

 

二人の間には会話は無かったが

可愛い羊さんたちの姿が気に入った母は笑顔であった。

お母さんは、、、

「貴女の教育を間違ったと思っている、、、ごめんね。」

私が、見知らぬ北海道に嫁いだことを

自分のせいだと、、、あやまりに来たという。」

「北海道って、、、自然が真実で本物で、人間の小ささは見ないようになるから、、、」

お母さんのせいではなくて、、、文化が50年ぐらいずれてるだけだと思うわよ。

このまま、、、北海道で雪を掻きながら、、、自然とともに行くからね。

心で言いながら、母を見ていた。

「医学部には学閥が在ることを知らなかった。もう、、、東京には戻れないと思う。」

母は、私に、もう戻ろうと思わないようにと、、、言いに来たのだった。

「もう、、戻ってこなくてもいいよ。お母さんの自業自得だから、、、」

「お兄さんも、三人のお嫁さんも着てくれているから、、、安心よ。」

「開業医の時代は終わるからね、、、

税制も優遇されないし、従業員も大病院志向になってくるし、、、」

一日150人の地域の患者さんを診療して、早期がんの患者さんを

大病院に紹介していた、内視鏡専門医の長男は、

母が80歳になる前に開業を閉院して、

千葉県の亀田総合病院の胃カメラ指導医として第二の人生に船をこぎ出したときであった。

従業員が自立できるように退職金を払って、

お抱えのだった男性職員の会計士の人には

借家で家族を養えるようにして閉院した。

ショックで、、、一時的に痴呆状態になった兄嫁の為に

実家は売却されて、ケアのついた高級老人ホームに移っていた。

私の実家は無くなった。

知らないうちの出来事のように過ぎて行った。

一円の分配金もなかった。

北海道に来ていてよかったと思えた。

近くに居たら、、、父の姿を思い出して、、、

ひとこと言いたくなったかもしれません。

兄の息子が、、、全く見知らぬ土地で、、、奥さんと、もう一人の勤務医と3人で

 

父の診療所と同じ名前の同じ名前のクリニックを開業したが、

もしかしたら、、、実家は売られて、、、生まれ変わったのかもしれません。

もう、、、世代交代の住んだ実家には誰も居ないことだけはわかりました。

三代目の甥っ子の未来への矢はすでに放たれて遠くに飛んで行ってしまっていた。

彼の結婚式にも、開業パーティにもよばれなかった。

嫁に行くという事は、、、孤独との戦いであったが、

外から見ると、、、

医師の家庭の娘は、濡れ手に粟の良いことばかりをしていると思われる。

自分で立てる力を持たなければ、、、

翻弄されると知りながらも、

医師と結婚してしまったばかりに

医師の医療を通しての社会貢献度が大きいだけに、

私は、家庭をおろそかにすることは

医療に差し障ると感じるものがあり、

今の日本の税制では、共働きは時間を失う。

守備の人生が家庭を生かす

家庭婦人となった者の

道であることだけは認識できた。

薬剤師として、

社会に出るときは、息子たちの

私立大学の月謝を必要とする間だけだった。

月給の高い調剤薬局で店長をさせていただいた。

私なりに家庭に居るよりは充実していました。

しかし、、、辞めなければならない家庭に事情が起きました、

次男の骨折です。

私は仕事を辞めて、次男の通う大学のある町で

2か月をサポートの為に同居しました。

結局は、、、女性は、、、家庭をとるから、、、最悪だと、、、

自戒の念にさいなまれながらも、

店長退職を、済ませて以後は、、、家庭に閉じこもることになりました。

 

男の人生は、、、家庭よりも、子供よりも、、、仕事第一だという

一途のプロ根性には、、、敗北しました。

職場でも、世間でも、若き外科医の主人は必要とされて

早朝勤務先に出たまま。夜は9時前に帰ることはまずなかった。

そして、、、夜は8時に帰ることが多くなった、、な~~~と

ふと気が付くと、、、老人になった主人が居た。

*********売り言葉に、、、買い言葉。。。

夫婦げんかも負けづ嫌いの勝気な主人です。*********

主人は私と出会ったとき、、、

夫婦げんかの最中なら、、、何でも言い散らかす主人です。

(**   (++   (##!

のうのうと、、、友人代表で北海道まで、

挨拶にやってくる医者の娘に

俺たちの苦労を知らせてやりたかった!!!と言う。

自分が認識不足だったことは確かだが、、、

自分だけが苦労していたと思っていた。

「俺たちは、どんなに苦労して、、、戦後を生きて、、、

どんなに苦しい思いで、国立大学の受験に臨み、、、

合格しても、わずかな仕送りで、

奨学金に支えられながら、、、大学院に居るかを、、、

結婚して、、、思い知らせてやろうという、、、

俺たちの生活ぶりを,、、解れ!」

怒りでもって、優雅に見えた私を反骨精神が妻に選んだという。」

 

結婚してみたら、、、どっこい、、、

優雅に見える開業医の世界には

自分たちの世界のような、

物質の苦労ではなくて、、、精神的にも、従業員的にも

医療機械の進歩とのいたちごっこの激戦も

地域との接触にも、、、

苦労という言葉では表せないプロ意識の

生きるか死ぬかの厳しい緊張が続くかを知ることが出来て

大きな組織で、

医師の仕事の腕を磨くという苦労なら、

自分は耐えられると知ったから、

結婚の時の契約の、

私の実家のメンバーとして、東京に帰るという約束は

結果的に果たせないという生き方を選んだようであった。

北海道で生きれるという事が解ると

主人は、、、もう、、、

利用できない私の実家とはコミュニケーションの

努力を一切しなくなった、

弟は著名な医学者になっても、、、

臨床医の自分とは阿竹が違うから、、、と

仲は良かったが、、、弟が札幌に来たときは止まってもらって

酒を酌み交わす程度で

自分からのアクセスは一切しないという、、、北海道の主人となっていた。

母は、、、待ったそうである。

長男が、アルバイトの医師を雇って、

神経質なまでに、一人開業の怖さに緊張して

電車のつり革が握れなくなるほど、、、

北海道から医師が家族になってくれる日を期待していたと言った。

弟が医師になった段階で、やっと精神が休まり

北海道からの私たち夫婦の合流を待たなくなったそうである。

 

一人、、、開業、、、確かに、、、苦しかったであろう。

あれっきり家族は世代交代したが、

母を80歳まで守った兄の責任は大変だったと思うのです。

主人は、母の葬式にも来ることはできなかった。

初七日も、49日も、一周忌も、私一人で東京の親戚と母の供養をした。

勤務先にも、個人的な事は知らせないという方針の主人だった。

主人の病院からも、花束は無かった。香典もなかった。

「家内のお前が死んだのだったら、、、知らせるから安心しなさい、、、葬式にはきちんと出るから、、、」

、、、、、、

正しいことばかり言う主人です。

大病院の医師の奥さんという椅子があると思うのは

北海道の戦前の生まれのお婆さん方には珍しくない現象ですから、

北海道は、、、医師はお金持ちなのかもしれません。

たまたま、、、生け花を習いに行った時の事ですが、、、

大病院の医師の奥さんだから、、、

生け花の月謝は5万円いただくわね、、、

大勢の弟子に囲まれた

生け花師匠の

誇らしげに

弟子たちの前で笑いかける姿が

おかしく思い出される。

40年前は、、、生け花の師匠にとって

医師の奥さんというのは、、、特別な弟子にあたるのだと、、、

私は、その場で、弟子になることを辞めて、

北海道では「生け花もやめた。

我が家の根をついたままの野草の庭の手入れを

生け花の代わりに楽しんでいる。

ちなみに

私の師匠は、御茶ノ水のYWCAの教室で習った

勅使河原一門の、あの、、、優しかった福井先生だと思い出すのです。

夏の御着物が特に素敵だった、、、

淡島千景さんに雰囲気が似ていた。

大学に残って無給医を続けて、

3ヶ月ごとに1か月の地方病院で16万円の月給をもらう生活費の中からは

生け花の5万は払えるわけはありません。

。。。はい。。。さようなら。

5000円でいいのなら、、、

「花代含めて1万円なら、、、又来ます。」

私は、東京で男性の多い日大の理工学部の学士です。

医師の奥さんという椅子などあるのも知らなかった。

後日、、、

電話が有った。

「ごめんなさいね、、、私も、見栄を弟子たちの前でハッチャッテ、、、

今月はお詫びに御月謝要らないから、、、又いらシャイ!」

電話はそれだけできれました。

私は次の月からは、3歳の息子を連れて通い始めました。

息子がガラスの壺の中に

ひまわりの華を底まで押し込んで

上から葉っぱをまっすぐ一枚立てて

「ママ~~~!!」喜ぶのを見ながら

先生は、「すごい!ピカソのような作品ね!、、、子供に習おうかしら!」

私は、教室に戻ってきて、

息子の付き添いをする生け花が続いたことを

苦笑しながら、、、思い出しています。

 

長屋に住みながら、私は、

札幌ではセレブだと言われている女性の中で

保育園にあぶれた息子の生け花に付き添っていたという

人生は「喜劇」なんですね~~~(^^

札幌の草月展覧会で、

自分の大好きな花器

(原田さんが大学卒後すぐの時の三越展覧会でローンで買った備前焼きの花器)

家財は自分の庭の五葉の松の最先端のカーブの枝を

自分が用意しました。

「寒菊や、、、まどう、、、は、、、己が光のみ、、、」

そのような気持ちで、

北海道の華の師匠には無関係の作品を活けてみました。

「あなたの作品は、、、手の入れようがないわね~~~」

お子さんが考えていけたのね?!、、、そのままでいいわよ。」

あきれ顔で、蒼風家元の大作の足元の台に置いてくださった。

医師の娘に生まれてよかったと思えることが有るとしたら、、、

廻りはともかく、、、

父の事は大好きだったし、、、

尊敬もしていたし、、、品性がまぶしい父だった。

尊敬に値する感動の治療を、

しばしば私に感じさせてくれたという

病気の人間の支えであることを見て育ったという事でした。

 

私は勉強に大半の時間をかけた。

父が54歳で亡くなったことは、

「医師をすることの応援に回ろうと思えるようになりました。」

 

主人の、私に対する思惑はどうあれ

黙々と、医師をすることのサポートに回り

自分が医師になっていたら、

もっと大変だっただろうと思いながら、

女医さんになっている女性の心は

強い人がほとんどなのだろう~~~と思ったりしている。

早く逝きすぎた父の面影と、同じ外科医の主人とを重ねながら、

主人の事は、、家族として視てなかったのではなかったかもしれない。

むしろ、、、勤務先を居場所と思っていた時が長かった。

大病院の家族である医師を

担当させていただく付き人のような感覚であったかもしれません。

妻らしいことはできませんでしたが、

家を守り、、、子供を育て、孫につながり

大病院の多くのスタッフが主人の家族に思えて、

都合の良いスタッフの一人として、

明日の診療の為の条件を整える人生。

医師をするためのニーズにこたえるためには

シュウカツは

しないことにしていました。

買った物は捨てません。

旧い時代の患者さんが入院中につくってくれた趣味の物も

何十年もそのままです。

80歳になって、、、予約して、主人の検診の日に来てくれているからです。

私は、、、影のままの人生ですが、

北大のアカデミーに通いながら、

とても楽しい時間を過ごせていますので、

人間という、、、

生物という、、、生命科学の宇宙を

星空を眺めるように、、、好きだったのだな~~~と

束の間の、私自身を見つけては、、、

ちゃんと!、、、居るではないか?、、、と。

孤独なはずが、孤独ではなかった人生に、感謝しながら

後期高齢者の朝が解らない日々の思いを、

 

生き残っている友人が

毎日、応答してくれているんですよね。

 

 

医師をしている限り、、、社会貢献度は、、、大きいという事を。