枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

学ぶ気持ちを持ち続けて

2010年03月20日 | Weblog
 人間は、如何なる職種なら偉いのであろうか?答えは否である。どんな仕事も、自分が納得してできていなければ、自信は無論あるはずもなく、誇りなどありはしないだろう。偉いというのも、自分で言ったり、思ったりするのではなく、自然に発するオーラがなければならない。常に学ぶ気持ちを失わないこと、謙虚な心でいること。自分をよく知っていて、悩んではいても、前に進めるよう切り替えのできる人。

 私には、命の終わる日まで、学ぶことを止めない気持ちでいられることが目標です。幸い自宅にはわりと書籍が多いので、時間の許す限りは繰り返して読む。新しい知識も必要なら入れる。活用するのは、図書館がいい。その中で、どうしても傍に置いておきたい書物だけを買うのだ。それだって、部屋中に溢れてしまうので、ため息をつきつつ諦める。先般、東京神田の古書店街が放送されていたが、喉から手が出て涎が流れた。

 アル中やタバコの中毒ではないが、活字中毒である。一日、活字にお目にかからないと、どうにも不機嫌になる。従って新聞は大切な読み物。読む以外では、原稿書きをすることですが、こっちは遅々として進んでいない。怠慢の日々です。家に居ればいたで、枇杷葉のことやら、花の世話で一日が終り、はたまた孫の迎えやら、手当てに奔走する。スケジュールがぎっしりなのです。

 仕事をするためには、体が基本なので、病気にならないよう気配りをする。そのためには基本をしっかりと管理する。枇杷葉のおかげで、膝の痛みもなく、腰痛もなんとか保っている。病に倒れないよう、心して働いている。佳くも悪くも、自分の体調管理ができていないと風邪をひく。勤務先で、未だに手洗いと嗽を、始まりと終わりにしているのは、私とBさんだけです。事が起きた時か、何かでしかしていない。

 冬の最中だけが危険なのではない。こういったことは自分の意識管理の問題。人に言われてするようでは、自分の身を守るどころか、職業意識に欠けているのではないか。危険とはいつも背中合わせであることの、認識にも欠けている。地震、雷、火事に際しては、私は真っ先に逃げます。生きてしなければならない使命故です。自分の命も、他人の命も同じですから、警告は致します。

 私に、できるくらいの能力では、その殆どの人が可能なのです。でも渡してあげようとしても、気がつかない人が多いですね。それはそれでいいのでしょう。私も敢えてとは申せませんからね。世の中には、そういった行き違いが多々あります。枇杷葉で寄って来てくれる方には、それなりの恩恵が、そうでないからといって、本人が望む事ならいいのです。

 中学校の時、同級生が夢の中に出て来たのだが、その人のお母さんと一緒に居ることが、どうにも不思議でしかたなかった。今はその謎が解けた。私の場合の夢は、必ず予知夢で視る。しかし、15歳の時には、想像すらできないことだった。私には、自分自身に対する自信は愚か、勉強は苦手で、夢のような絵空事ばかりを考えていた。

 鉄腕アトムやエイトマンは、強烈なヒーローだった。今も、東八郎に恋している。ライバルは適わぬ幸子さんである。枇杷茶を飲みつつ、夜の帳を眺めている。
 きんぎょ草の苗。1袋蒔いたら、全部発芽したよ。どんな色が咲くかしら?
コメント
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