枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

猫が顔を洗うと・・・

2018年03月05日 | Weblog

 雨が降るんですなぁ・・・。すばるが左手を耳の下まで上げている。耳を越さないのが雨降りとなるので、耳越せ、耳越せと言ってやるが、そのままをを繰り返す。さてもこそ、夕方からの大降りである。昨日の日中の暖かさと、雲の流れで知ってはいたが、猫の天気予報も莫迦にしたものでもない。実際に良く当たる。わたくしの耳が痒くなるのも、満更見当外れでもない。

 近々、人間ドッグがあり、勤務先と関連の病院に、行って来なければならぬが、雨脚は強くなる一方で、出掛けるのが億劫である。気力を奮い立たせて出かけるが、土砂降りとなった。すばるは、玄関に下りて、戸を開けてくれとせがむが、獣医に連れて行かれたことを、早忘れたのか?否、あの移動バッグを見れば思い出すであろう。神々の乱心を夢中で読み耽る。面白い。

 以前より、卑弥呼には尽きぬ興味があり、シャーマンという降臨にも複雑な想いがある。この中に、何度も出て来る名前だ。作者の筆力は知ってはいたが、文献の詳しさは基より、巧みな文章力に圧倒される。何故か、この著作だけは読み外れていて、図書館で見つけて借りたもの。自分の興味のある事柄を知りたく思ったら、勝手にこの本の処で、手が止まってしまったが。

 直感とも云うのだろうか?自分の手が、症状を和らげ、患部を癒して治せるのも、特技には違いないが、自分に与えられた使命のようにも思える。大それた神業等ではないが、頼って来る人には効くし、分かる者には通じ合う。だからと言い、どうということでもないが。松本清張という、一人の作家の偉業に、感服するばかりだ。だが人間、何時かは死せる者でもあるのだ。

 我が家の梅が綻んできて、一輪ばかりが咲いている。まさに梅一輪の暖かさである。草も、それなりに伸びてきて、啓蟄を待っている。季節とは摩訶不思議なもので、時期が来れば自ずと命が芽生えてくるものだ。科学が近代化され、化学も医学も進歩に著しいが、自然の力の脅威には勝てない。予測できない現象と云うが、人間の驕りや身勝手が創り出す弊害でもあるような。

 月や太陽、宇宙の星々への、祈りと感謝の気持ちがあれば、困難にも耐えられるし、生きて行けれるようにも。だが、原発の後遺症には、国と企業とが責任を持って当たらねば。災害だからと、地方任せでは成り立たない。アメリカ依存では、赤字国債発行ばかりで、借金まみれの大負債で、行く先不安は免れない。政権を主る者は、庶民の生活を知る事が重要。目黒のさんま。

 苗を買った当初には、群れて咲いていたが、年を追う毎に減ってきた。それでも零れ種が落ちて、ひそやかに咲いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする