『黒い雨』昔、映画の題名として耳にしたことがあった。作者である井伏鱒二と作品名が結び付いたのは、先に読んだ短編小説『山椒魚』『屋根の上のスワン』等。気付かぬ内に子供の頃、一度は読んでおり、作家名は知らずに親しんでいた。
物語の大筋は勿論のこと、細部に出てくる小道具まで計算されて書かれたのだろうな…と思った短編とは一変! 主人公の閑間重松(しずましげまつ)と妻シゲ子、そして結婚を控えた姪の矢須子の日常を淡々と語っている。
物語が始まるのは、広島が原爆を受け、終戦を迎えてから三年の月日が経ってから、ではあるが、重松は図書館に寄贈する原爆日記を清書していることから、物語の途中、途中に原爆当時の様子が語られる。そこには、重松たちが目にした人々、広島城跡地、あった筈の建物や役所は消え、性別も分からぬ状態の、つい先ほどまで会話をしていた無数の人々… 駅前の街は火災で近寄れない、荒神橋も火災で渡れない、ここにある水は安全か否か…? 見知らぬ子供も いつの間にか重松と一緒に歩いている、名前を聞けば情が湧くから聞かずにいた…何所を読んでも、何を目にしても、辛かった。苦しかった。
「戦争なんて早く終わればいい、正義の戦争より、不正義の平和の方がいい、」
作品中の、どこかに書かれていた。
重松の日記の他、姪、矢須子の日記、妻シゲ子が記したメモも紹介される。戦時下の食糧難に、主食は勿論、調味料も何もかも足りない中、一体、どのように工夫して調理したか、或は食料を増やすためどうしたか?などにも触れている。一昨年夏に見た映画、『この世界の片隅に』を思い出す。 どこにでもいる、一般市民の日常。日々の営みが、原爆投下という悲劇によって、非日常に。健康だった矢須子も、やがて原爆病に侵されていく。彼女は爆心地から遠く離れた場所にいたにもかかわらず、『黒い雨』に打たれたことで、重松よりも先に…
あれだけの出来事を感情的になることなく、淡々と、、、記録映画のように。第三者が語ったかのごとく日記にしたためられていることが、かえって戦後生まれの私にも、「あの原爆」の恐ろしさが迫ってきた。
裏表紙には、次のように記されている「被爆という世紀の体験を日常性の中に文学として定着させた記念碑的名作」
同感! 『黒い雨』の流れはそのまま、『この世界の片隅に』へと受け継がれている気がした。