あの日以来、僕らは度々甲板で会うようになっていた。ただ、語りたかった。話をしたかった。そうでないと、自分の人生の歯車がどんどん悪い方へ流れていってしまいそうだった。ジュリーに会うと、何故だか何でも可能になる気がしてくるのだ。一文無しの自分が再び夢を語る…生きてさえいれば何でも出来る。彼女の明るさ、おおらかさが僕に再び前を向かせた。
ジュリーは僕が諦めた英国で学んでいた。イギリスの名門女子部で、寄宿舎生活を送っているそうだ。今回、夏の休暇を一年ぶりに故郷で過ごすことにしたらしい。
「早く母に会いたいなぁ」
何気なく彼女は口にした。
「うん、そりゃ、そうだよね。一年ぶりの帰省なのだから。きっと、ご家族も皆、ジュリーの帰宅を楽しみに待っているよ」
僕は出来る限り自然に、穏やかに言ったつもりだったが、ジュリーは僕の顔を見ると、しまった!という表情をした。これには僕も慌てた。
「僕に遠慮なんていらない。思うことを何でも素直に話して欲しい」
「だって…」
彼女はうつむき加減で言った。
「あなたはいくら望んでも、お母様に会えないのですもの。軽率だったわ」
と言うと、ジュリーは突然感情を抑えきれなくなったのだろうか。無意識に抱えていた僕の哀しみへの共感が、一気に溢れ出たようだった。ジュリーは泣いていた。僕のために泣いてくれているのか⁉ 大勢いる親戚一同でさえ、僕のことを厄介者扱いし、誰一人、僕の心に寄り添う大人などいなかったというのに。うつ向いたまま、なかなか泣き止まないジュリーの背中に、僕はそっと手を伸ばした。恐るおそる背中に触れようとしつつも、僕の指先はまるで空を舞う蝶のようだ。やっと見つけたように彼女の背中に着地すると、僕の指先は、そっと彼女の背中を一回さすり、思わず引っ込めた。ピリッとした感覚が僕の指先に残る。子ウサギのように、小刻みに彼女の背中は震えていたのだ。
「ジュリー… 泣かないでおくれよ。僕まで哀しくなる」
すると、はっとしたように顔を上げると、ジュリーは泣きはらした目で僕を真っ直ぐに見た。
「ジョン、あなた、泣いた? ちゃんと泣いた? 哀しい時は泣いていいのよ。何も無理して大人ぶることなんて、ないのだから。私達、1つしか、歳も変わらないでしょ」
言うが早いか、再びジュリーは泣き出した。さっきより強く、より激しく。そんな彼女の背中をそっとさすりながら、僕は誓った。オトナになったら、僕が彼女を守るのだ、と。だが、一文無しの自分が一体どうやって? 一瞬、よぎった懸念を振り払う。そんなこと、今はまだ、どうだっていい。ただ、守りたい相手が目の前にいる。生涯孤独な筈の僕が、ようやく存在意義を見出したような気がした。僕はずっと孤独だった。誰も僕のことを気にかけてくれない中で、ジュリーだけは僕に向き合ってくれた。それだけで、彼女は僕にとって光のような存在だった。僕の心に、何か新しい希望を灯してくれた人なのだ。
「おーい、ジョン!何やってんだ?片付けがまだだろう」
船乗りの頭に声を掛けられた僕は、一気に現実に引き戻されたような気分だった。
「お頭の言う通りだぞ、ジョン! 昼間っから、お色気出すにはまだ早いぞー」
どっと遠慮がない船乗りたちの笑い声が甲板にこだまする。僕は気が動転して思わず言い返した。
「そっ…そんなわけないだろ!ジュリーは僕なんかよりずっと頼りになるんだ!」
「ほ~ そうかい! かかあ天下間違いなしだな!」
より大きな笑いがどっと起きる。先程まで泣いていた筈のジュリーも一緒になって笑い出した。初夏の太陽がじわりと肌を温め、潮の香りが微かに漂ってくる。遠くでカモメの鳴き声が聞こえる中、彼女の笑い声がその場をさらに明るくした。泣きはらした赤い瞼だけが、彼女の強さと思いやりの深さを感じさせる。より一層、僕が彼女を守るのだ、という決意が強くなる。周囲の笑い声に包まれる中、僕は現実に引き戻される。それでも、胸の奥にはジュリーへの思いと、守りたいという新たな決意が強く残っていた。
初夏の太陽が優しく僕らを照らしている。まるで僕の心密かな決意を後押しする応援歌のように。
続く...
ここから~3
昼間に会うと船乗りたちのからかいにあうため、僕らは満月で明るい夜に会うようになっていた。アメリカ大陸まで、あと一週間ほどだろうか。ジュリーが陸へ上がれば、僕らは簡単には会えなくなる。そのことが僕を焦らせた。