本のタイトルとなっている虞美人草は、「ひなげし」の別名で、ケシ科の一年草。5月ごろ、濃紅、白、橙色の花が咲くらしい。
漱石の小説は、読んだことは無くとも、題名だけは知っているか、聞いたことがあるものだと思っていた。しかしこの小説、初めて知った! 図書館で見つけた時は、「知らないタイトルの漱石の本があるじゃない!」と、飛びついた。
小説がいよいよラストに差し掛かった頃、一気にクライマックスを迎え、線香の灯火に唖然とする暇もなく幕は閉じる。その時になってようやく登場する「虞美人草」
学生時代、最も早くは小学6年の時、易しく書かれた文庫を母が学校経由で購入してくれ、その時初めて漱石に触れた。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」の二冊、或はその後、大学入学後に教材として購入し読んだ漱石の小説は、いずれも一人称で書かれており、言いたい放題、爽快なイメージだった。個人的に一番好きだった「こころ」は勿論、爽快とは程遠いものの、やはり一人称で書かれていた筈。「虞美人草」は三人称で書かれた小説で、そこからして何か違う。最初に図書館で10ページほど読んだ時は、熟語など漢字ばかりに目がいったものの、その後、仕事を終え、自宅に戻ってからは、ものの見事に小説の世界へ入っていけた。
解説を一読すると、散々けなしている気がするものの、自分にとってはこれまでとは違った意味で面白かった。もし、この著書を読む時期が今より早かったなら、チンプンカンプンな部分が多かった…というか、注釈ばかり、を目で追って、最後まで読み切れなかった可能性大! 勿論、注釈の殆どを利用させて頂いたものの、利用せずとも済んだ箇所は、シェイクスピア劇や古代ローマやエジプト等、あの時代の歴史に関する箇所、例えば、
「ルビコンを渡るか」という表現があれば、(主人公小野くんは、瀬戸際に立たされ、戻ろうか、進もうか、今からでも戻ってやり直せるか‼? そんな自分をルビコン川を渡ったシーザーに例えているわぁ…)と思い、イギリスに留学していた頃の漱石だったり、その頃、きっと彼が触れたであろうヨーロッパの歴史や文化。或は神経衰弱になっていた漱石の生涯にも思いを馳せながら読むことができた。知識人としての漱石をこれまで以上に感じた小説だった訳だが、解説者には、そこの部分を批判されてしまっているようでして…
三人称で書かれた小説、というところでいえば、「実験的に書いた」のでしょうね、やはり。でも、作家なら誰でも通る道じゃないでしょうか。この小説の中で漱石が描いた「傲慢で虚栄心の強い美しい女性、藤尾」は、漱石が「けしからん女だ!」「あの女が一人いると、小夜子のような(古風で物静かな女性)が7人殺される」という風に小説の中で登場人物に言わせているように、反面教師的な女性数人分を”藤尾一人”に詰め込んだ感のある描き方! 実際のところ藤尾のモデルは複数の女性がいて、小夜子のモデルは漱石の理想として描かれているような気がした。坊ちゃんに登場した「学問はたいしてしてはいなくとも、情がある世話好きおばあちゃん」のような…。そんな訳で、遠い存在である筈の明治の文豪、夏目漱石を最も身近に感じつつ、最後のクライマックスへと持っていかれた。他の登場人物の人間模様も興味深かった。登場人物の苗字の後、「くん」「さん」「君」と人によって変えているのは、どんな意図があるのだろうか。漱石が生きていたら、聞いてみたかった。
藤尾の兄、甲野さんと宗近君。
宗近君の妹、糸。
主人公小野くんを最後に救い出すこととなる宗近君。
甲野さんと母親との関係。
「母の家を出てくれるなと言うのは、出てくれという意味なんだ。財産を取れというのは、寄こせという意味なんだ。世話をして貰いたいというのは、世話になるのは嫌だという意味なんだ。ー だから僕は表向き母の意志に逆らって内実は母の希望通りにしてやるのさ」(新潮文庫 平成22年 396ページ)すべては世間体のため。だから自分が悪者になって母の望むように家を出ていく」 なんだかトルストイの「戦争と平和」で描かれたマリアと父の関係を思い出し、違った形であれ、根底にあるものは西洋時代を問わず変わりないと、改めて思ってしまった。
最も心に残った一文は、「死を忘るるものは贅沢になる」(453ページ10行目より抜粋)
PS. この小説の中で、「威風堂々」という言葉も形容詞として漱石が使っており、最近になって威風堂々を好んで聴いている私は、何だか嬉しくなってしまったのでした♪