昨日の読売新聞。
「時代の証言者」なる、連載記事がある。
各界の著名な人物を登場させて、その時代、時代に生きてきた人生を聞き語りして掲載している。
今回は、(ヨイトマケの心 美輪明宏)さんの、回である。
美輪さんは、あの美しい美貌を武器に、生き抜いてきた、人生を語っている。
勿論、美輪さんの人生にも興味がある。
9回目の昨日、最後の方に、こんなことが書かれてあった。
美輪さんが 20才 1950年頃のシャンソン喫茶「銀巴里」の頃のこと。
忘れられないのは、パリ帰りの粋なおじさま、薩摩治郎八さんです。
外国人を連れて、よく楽屋を訪ねて来られました。
<戦前フランス社交界で活躍した実業家で、藤田嗣治らを支援「バロン薩摩」「東洋のロックヘラー」と呼ばれた。29年私財を投じて「パリ国際大学都市日本館」を建設した。>
(薩摩治郎八さんは、レジオン、ドヌール勲章を胸に、パリ社交界で巨額の富を放蕩し尽くた。国際的大パトロンの真の教養人であった。)
この治郎八さんが、葉巻を愛する豪快な方で、美輪さんに
「パリに全財産を寄付してきたことはちっとも惜しいと思わない。だけど、君を見た時にだけは、こりゃしまったと悔いた。あれだけの金を全部君に注いでいたら、どんなにすごい芸術家ができただろうと思ってね」と言って下さった。
この頃の「銀巴里」のお客様との出会いは、かけがえのない財産になりました。
この 薩摩治郎八さんをモデルに、獅子文六さんが読売新聞に長編連載小説を書いていた「但馬大治郎伝」は子供ながらも、夢中になって読んだ。
獅子文六さんのエスプリ豊かなユーモアを含んだ文章が好きになり、その後も獅子文六さんの小説はよく読んだ。
私が、数十年前、初めて、パッチワーク教室に通い出した時の先生が
<薩摩としこさん>
薩摩治郎八さんの晩年の奥さまである。
(薩摩治郎八さんの波乱万丈の人生は、色々本にも書かれているから読むといい。)
とし子さんは、優しい方で、女性らしく、治郎八さんの心をつかんだ方だから、魅力的であった。その頃は今の私くらいの年齢だったかな。もっと、若いか?
大勢のパッチワークの生徒さんを助手を一人かかえて、教えていらっしやった。
なぜだか、先生と気が合って、良くお話しをしたり、手をとり足をとり教えて下さった。
夫の転勤で、こちらへ来たものだから、パッチワークの教室は辞めざるをえなかった。
新聞記事で、こちらのデパートで、先生の個展があるのを知り、訪ねていったこともある。
それもずいぶんと昔のことである。先生はご健在かしら。
美輪さんが薩摩治郎八さんのことを、語ったものだから、奥さまのことを思い出した。
私の好きなパッチワークの基本は、先生から学び、今に続いている。