ミーSAN今晩は。北の方もかなりの残暑の様ですね。どうかご健康に。
それと先日、貴サイトの「しりとりコーナー」にてちょっと失敗があり、済みませんでした。
知友の方皆で盛上げるコーナーである以上、他の方のご投稿の状況を見る必要があり、これは要注意ですね。今後の課題が1つ見えた様な気がします。
さて、貴女宛ての伝言の1通は今年もこのタイトルに落ち着きました。
今夏はご存知の様に、年初に相次ぎ逝去した母方の祖父母を偲ぶ特集として、我が゛先祖と縁の深いローカル鉄道飯田線の事を中心に記事を綴っています。
この路線の事は色んな文献やインター・ネットの情報にも取り上げられていて、そこから調査研究する事もできるのですが、やはり一番説得力のある見聞は、幼少から青春期にかけて頻繁に同線を利用していた母の話でした。
今月一度記しましたが、飯田線の全通は1937=昭和12年の夏。母の乗車の記憶はそれより少し前からであり、当時未開通の区間は川舟に乗り換えた記憶がある由。
最早、この時代からの乗車経験を持つ方はもう多くはないと思います。
この路線では勿論祖父母も用務にて何度も往来した訳ですが、中でも戦中戦後、列車にての食糧の搬送には苦労が多かった様です。
戦時中は食糧統制による配給制、終戦直後も同様で、祖父は憲兵隊による取締りをかわしながら妻子を養う為、少しでも多くの食糧を確保すべく奔走していた様です。
勿論中には捕捉され、没収されてしまうケースもある訳で、そうした苦労の片鱗しか知り得ない己が歯がゆくなる事もありました。
又母は、土砂災害による事故現場をも目の当たりにしています。
長野南信と愛知奥三河、それに静岡西部の山間を流れる天竜川は、地質の不安定な中央構造線に近い為しばしば深刻な土砂災害を生じ、為に飯田線が数ヶ月もの長期間不通となる事は近年でも時々ある様ですね。
最大の惨禍は1955=昭和30年の年初の夜間、今の飯田市の天竜峡に近い川下で線路を塞いだ落石に列車が衝突して脱線、更に天竜川へと落下して複数の犠牲を生じた事故であります。
山峡ゆえに生存者救出、その後の復旧にも困難を伴い、母の話によると「被災車両の搬出には、数ヶ月を要した」そうです。
今も事故現場近くの線路は、川岸の断崖にあり、小規模な災害でも運行に支障が出る程の険しい立地です。
これは対岸を走る県道も同じで、今も愛知県北東部のこの梅雨に生じた土砂災害の為、現在も寸断されたままです。
それにしても、こうした険しい状況下にて理解できるのは、立地面において自然環境への負荷は、鉄道の方が道路よりずっと少ないと言う事でしょう。
今は亡き紀行作家、宮脇俊三さんが生前ご指摘になっていた事ですが「道路は上下2車線で5.5m以上の道幅を要するが、鉄道は単線なら3.5mで済んでいる。この事からも、環境負荷についての両者の差は明らかである。」
勿論路線によって交通条件が異なりますから一概には申せないかも知れませんが、一般にこうした傾向は多くあると思います。
長野、静岡、愛知の3県の境を接する山間にては、こうした話が説得力をもって伝わって来る気がします。
それと先日、他の知友の方への伝言にても触れましたが、今夏はこれも先祖を育んだ流れ、天竜川の水源と河口も訪ねました。
ある意味、もう1つの飯田線の起点と終点の様に思われたからです。
この盆明け、再び天に帰った祖父母の霊を、穏やかな佇まいの天竜の河口より見送った思い出は、忘れ難いものがありますね。
最後に、昨8/26(日)にて拙特集日記に因む拙写真帖次回作の撮影を終わりました。
その前日の8/25(土)にも夜景を中心に撮りに参っていたのですが・・・。
この次回作、来月のなるべく早い時期にお目にかけられる様努めるつもりです。*(波)*
P.S 次回にて、ひとまずの終了と致します。
それと先日、貴サイトの「しりとりコーナー」にてちょっと失敗があり、済みませんでした。
知友の方皆で盛上げるコーナーである以上、他の方のご投稿の状況を見る必要があり、これは要注意ですね。今後の課題が1つ見えた様な気がします。
さて、貴女宛ての伝言の1通は今年もこのタイトルに落ち着きました。
今夏はご存知の様に、年初に相次ぎ逝去した母方の祖父母を偲ぶ特集として、我が゛先祖と縁の深いローカル鉄道飯田線の事を中心に記事を綴っています。
この路線の事は色んな文献やインター・ネットの情報にも取り上げられていて、そこから調査研究する事もできるのですが、やはり一番説得力のある見聞は、幼少から青春期にかけて頻繁に同線を利用していた母の話でした。
今月一度記しましたが、飯田線の全通は1937=昭和12年の夏。母の乗車の記憶はそれより少し前からであり、当時未開通の区間は川舟に乗り換えた記憶がある由。
最早、この時代からの乗車経験を持つ方はもう多くはないと思います。
この路線では勿論祖父母も用務にて何度も往来した訳ですが、中でも戦中戦後、列車にての食糧の搬送には苦労が多かった様です。
戦時中は食糧統制による配給制、終戦直後も同様で、祖父は憲兵隊による取締りをかわしながら妻子を養う為、少しでも多くの食糧を確保すべく奔走していた様です。
勿論中には捕捉され、没収されてしまうケースもある訳で、そうした苦労の片鱗しか知り得ない己が歯がゆくなる事もありました。
又母は、土砂災害による事故現場をも目の当たりにしています。
長野南信と愛知奥三河、それに静岡西部の山間を流れる天竜川は、地質の不安定な中央構造線に近い為しばしば深刻な土砂災害を生じ、為に飯田線が数ヶ月もの長期間不通となる事は近年でも時々ある様ですね。
最大の惨禍は1955=昭和30年の年初の夜間、今の飯田市の天竜峡に近い川下で線路を塞いだ落石に列車が衝突して脱線、更に天竜川へと落下して複数の犠牲を生じた事故であります。
山峡ゆえに生存者救出、その後の復旧にも困難を伴い、母の話によると「被災車両の搬出には、数ヶ月を要した」そうです。
今も事故現場近くの線路は、川岸の断崖にあり、小規模な災害でも運行に支障が出る程の険しい立地です。
これは対岸を走る県道も同じで、今も愛知県北東部のこの梅雨に生じた土砂災害の為、現在も寸断されたままです。
それにしても、こうした険しい状況下にて理解できるのは、立地面において自然環境への負荷は、鉄道の方が道路よりずっと少ないと言う事でしょう。
今は亡き紀行作家、宮脇俊三さんが生前ご指摘になっていた事ですが「道路は上下2車線で5.5m以上の道幅を要するが、鉄道は単線なら3.5mで済んでいる。この事からも、環境負荷についての両者の差は明らかである。」
勿論路線によって交通条件が異なりますから一概には申せないかも知れませんが、一般にこうした傾向は多くあると思います。
長野、静岡、愛知の3県の境を接する山間にては、こうした話が説得力をもって伝わって来る気がします。
それと先日、他の知友の方への伝言にても触れましたが、今夏はこれも先祖を育んだ流れ、天竜川の水源と河口も訪ねました。
ある意味、もう1つの飯田線の起点と終点の様に思われたからです。
この盆明け、再び天に帰った祖父母の霊を、穏やかな佇まいの天竜の河口より見送った思い出は、忘れ難いものがありますね。
最後に、昨8/26(日)にて拙特集日記に因む拙写真帖次回作の撮影を終わりました。
その前日の8/25(土)にも夜景を中心に撮りに参っていたのですが・・・。
この次回作、来月のなるべく早い時期にお目にかけられる様努めるつもりです。*(波)*
P.S 次回にて、ひとまずの終了と致します。