Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

節目~夏の行路

2007-08-06 07:51:00 | インポート
お早うございます。今朝の当地は曇り。
天気予報は概ね晴れ予想ですが、南方よりの多湿な空気の影響により不安定な天候の由。時と場所によっては、にわか雨や雷雨位ありそうです。

今日は我々日本人にとり、忘れてはならない原爆忌。62年前の1945=昭和20年の今日、広島上空に米合衆国軍の飛行機よりウラニウム型原子爆弾が投下され炸裂、計20万を超える方々が犠牲となったこの惨禍は過日、前防衛大臣の発言と言われる「投下やむなし」のレベルで総括できる問題ではないと思います。軍事戦略上は合っているにせよ、この事には人道的配慮が強く求められるはずであり、又合衆国が続いて長崎に投下する事となった2発目の爆弾は、1発目とは異なるプルトニウム型だった事への説明にも支障するのではないでしょうか。
「史上最悪の人体実験の疑い」も抱かれる原爆の問題はまず「絶対にダメ!」との基本姿勢があって良いと私も思いますね。
今日はこれから、広島の街にて恒例の追悼行事が執り行われるはずであります。

話が脱線してしまいました。飯田線の線路上に戻る事としましょう。

愛知県豊橋市を起点とし、同県東三河地区から静岡県浜松市の北西山間部と長野県南信地区を経て、JR中央本線の東線と接続する長野県辰野町までの約200kmを結ぶローカル鉄道飯田線の最初の区間、豊橋~豊川間が初開通して今年で満110年、前述の全線開通を遂げてから今年で満70年になろうとしています。何分にも長大な路線の為、一口でその歴史を申し上げる事は極めて難しく、次回以降追って記して参る事と致しますが運転方式について少し触れると、線路幅はJR社の在来線統一規格の1067mm、電力方式は同社の電化路線の標準たる直流1500Vであります。

この路線のそもそもの起こりは今の豊橋市を中心に在住の、旧吉田藩の元士族達が自らの生計の為、古より国民的な信仰を集めていた豊川稲荷の参拝客輸送を図り、19世紀終盤に設立した豊川鉄道であると言われています。
1897=明治30年夏、豊橋から豊川までの約9km弱が初開通。以後今の新城市内である大海、愛知、静岡の県境に近い豊川水系と天竜川水系の分水嶺に当たる三河川合などを経て別会社「三信鉄道」そして飯田から北の上伊那に路線を持つ「伊那電気鉄道」とも連携、山間部の難工事を克服して遂に1937=昭和12年の夏、初開業より40年の歳月をかけ全線開通を果します。
6年後の1943=同18年夏には折からの大東亜戦争こと太平洋戦争下の運輸統合政策により全線が国有化、国鉄飯田線としての歴史の扉が開かれます。丁度沿線の主要都市、豊川の市制施行と同時でありました。続く。

コメント
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