らむSAN今晩は。もう盆明けの時期なのですが、当地東海地方より西の我国各地は、依然として猛暑に見舞われ続けています。勿論貴女の郷里の広島も同じでしょう。
現在は他の地方にお住まいの様ですが、同じ様な暑さでしょうか?
まあそろそろ秋の気配も感じますが、後暫くは残暑から解放されないか・・・などと諦めております。しかしながら水分の補給とか休養の確保などを心がけ、お互い健康留意にて、9月以降へと繋げたい気持ちはありますね。
さてこの夏は、今年の拙特集日記にて取り上げているローカル鉄道飯田線の列車に何度か乗る機会がありました。
東海道新幹線の沿線、豊橋より我が故郷の豊川を経てその北の新城、そして遥か昔の戦国期、織田・武田両軍の内戦の古戦場だった長篠城の辺りまでは通勤通学路線としての色彩が濃いですね。この辺りから名古屋まで毎日通勤なさっている方も多い様です。
飯田線の列車に初めて乗る方にとり、少し戸惑うかなと思うのは、乗降ドアが完全な自動式ではない事でしょう。
開く時は手動で、駅に着くと乗客が自らドアを開けなければなりません。事実ドア窓に「降りる際は、手で開けて下さい」の表記が見られ、車内放送にても「ご面倒ですが、ご協力をお願いします」との案内を入れています。
この様になったのは、冬季の同線の寒さが厳しく、全自動にての開閉では、特に山間の乗り降りの少ない区間にて車内温度が低下して具合が悪いとの事情がある様です。
戦前製の超レトロな電車が昭和末期の1982年頃に引退し、今も活躍する当時の新車にバトン・タッチした時には手動扱いを冬季だけにし、それ以外の時期は全自動としていたのですが、平成に入って電車の冷房搭載が進み、夏場も冷気の確保の為には半自動の方が良いとの判断から、結局は昔ながらの通年開扉のみ手動のスタイルに落ち着いた様です。
尤も最近投入が始まった最新車など一部の車両は、乗客がドア脇のボタンを押して開け閉めをするタイプも増えて来ている様です。
続いて愛知の奥三河より山間に入り、地元の方々の利用が多くなります。利用人員は大きく減りますが、その分素朴でゆったりした雰囲気が今も良く残っていますね。
今月初には豊橋より飯田まで列車に乗る機会がありましたが、高齢の地元の方々が私のすぐそばで興じる雑談は、こうした山間での生活に相応しい風情を備えている様でした。険しい生活環境と永く向き合って来た故の、芯の強い暖かみを感じさせる好ましい雰囲気がありました。
飯田の南、天竜峡より北は再び乗客も増え、車内の活気も戻りますが、この辺より北はどうも首都圏の影響も大きい様ですね。やはり全長200kmに近い長い路線ですので、北と南では東京と名古屋、その双方よりの影響があるのだと思います。又、伊那市の中心部では線路が町並みの中を通り、住宅の軒先スレスレの所を走る光景も見られて、昔むかしの私鉄時代の風情が残されている所もありますよ。
一頃は通学生の乗車マナーの悪さが指摘されたものでしたが、最近の飯田線の車内にては、少しはそうした問題も改善されて来ている様です。何よりも、一時社会問題にもなった電車内の落書きが、以前よりは少な目になっている様な気もします。*(注意)*
現在は他の地方にお住まいの様ですが、同じ様な暑さでしょうか?
まあそろそろ秋の気配も感じますが、後暫くは残暑から解放されないか・・・などと諦めております。しかしながら水分の補給とか休養の確保などを心がけ、お互い健康留意にて、9月以降へと繋げたい気持ちはありますね。
さてこの夏は、今年の拙特集日記にて取り上げているローカル鉄道飯田線の列車に何度か乗る機会がありました。
東海道新幹線の沿線、豊橋より我が故郷の豊川を経てその北の新城、そして遥か昔の戦国期、織田・武田両軍の内戦の古戦場だった長篠城の辺りまでは通勤通学路線としての色彩が濃いですね。この辺りから名古屋まで毎日通勤なさっている方も多い様です。
飯田線の列車に初めて乗る方にとり、少し戸惑うかなと思うのは、乗降ドアが完全な自動式ではない事でしょう。
開く時は手動で、駅に着くと乗客が自らドアを開けなければなりません。事実ドア窓に「降りる際は、手で開けて下さい」の表記が見られ、車内放送にても「ご面倒ですが、ご協力をお願いします」との案内を入れています。
この様になったのは、冬季の同線の寒さが厳しく、全自動にての開閉では、特に山間の乗り降りの少ない区間にて車内温度が低下して具合が悪いとの事情がある様です。
戦前製の超レトロな電車が昭和末期の1982年頃に引退し、今も活躍する当時の新車にバトン・タッチした時には手動扱いを冬季だけにし、それ以外の時期は全自動としていたのですが、平成に入って電車の冷房搭載が進み、夏場も冷気の確保の為には半自動の方が良いとの判断から、結局は昔ながらの通年開扉のみ手動のスタイルに落ち着いた様です。
尤も最近投入が始まった最新車など一部の車両は、乗客がドア脇のボタンを押して開け閉めをするタイプも増えて来ている様です。
続いて愛知の奥三河より山間に入り、地元の方々の利用が多くなります。利用人員は大きく減りますが、その分素朴でゆったりした雰囲気が今も良く残っていますね。
今月初には豊橋より飯田まで列車に乗る機会がありましたが、高齢の地元の方々が私のすぐそばで興じる雑談は、こうした山間での生活に相応しい風情を備えている様でした。険しい生活環境と永く向き合って来た故の、芯の強い暖かみを感じさせる好ましい雰囲気がありました。
飯田の南、天竜峡より北は再び乗客も増え、車内の活気も戻りますが、この辺より北はどうも首都圏の影響も大きい様ですね。やはり全長200kmに近い長い路線ですので、北と南では東京と名古屋、その双方よりの影響があるのだと思います。又、伊那市の中心部では線路が町並みの中を通り、住宅の軒先スレスレの所を走る光景も見られて、昔むかしの私鉄時代の風情が残されている所もありますよ。
一頃は通学生の乗車マナーの悪さが指摘されたものでしたが、最近の飯田線の車内にては、少しはそうした問題も改善されて来ている様です。何よりも、一時社会問題にもなった電車内の落書きが、以前よりは少な目になっている様な気もします。*(注意)*