コナサン、ミンバンワ!
盆が明けてからも酷暑が続きます。
今日日中には遂に、当地近隣の岐阜県多治見市と首都圏は埼玉県熊谷市にて、我国の高温記録が74年振りに更新されたとか。
何と40.9℃!記録された時刻は、本当に灼熱地獄だったのではないでしょうか。
事実、熱中症の犠牲となった方々もいらす様で、公共、個人の両サイドからの猛暑対策が必要の様です。せめて可能なのは、水分と休養を努めて多めにする位でしょうか。
さて今夏の拙特集日記は、今春逝去の母方の祖父母の軌跡を偲ぶ意味をも込め、母方の祖先が出身地の長野南信と居所たる東三河との往来に愛用したローカル鉄道、飯田線の事共を中心に綴っておりますが第7回の今夜は飯田線より少し離脱し、同線と沿線の条件の似た、私が年に何回か訪れている新潟磐越のローカル鉄道、磐越西線の事に少し触れようかと思います。
この鉄道は飯田線とほぼ同時期の19世紀末に構想着工され、1914=大正3年に当初「岩越線」として開通した由です。
その後1917=同6年に福島県の太平洋岸、現いわき市より郡山市までの所謂磐越東線の開通に合わせ、現名称の磐越西線を名乗る様になります。起点は福島県郡山市、終点は新潟県新津市で全長約176kmの全線が単線。郡山から途中の喜多方までの約80kmが電化されており、軌道幅員は勿論1067mm、電力方式は地方の幹線鉄道に多い単相交流20000V、周波数50Hzであります。
沿革を見てみますと、当初同線は大幹線たる東北本線より日本海側随一の主要都市新潟とを結ぶ幹線として計画施工され、東京上野よりの直通列車も少なくなく、又戦後もかなりの間、昼夜を問わず多くの貨物列車が運転されていた様です。
昭和に入ると首都圏と新潟を最短距離で結ぶ上越線の開通(同線は雪深い群馬・新潟県境の所謂上越国境を越える為、施工困難により戦前でもかなり後年の開通となりました。この区間を題材にした川端康成さんの小説「雪国」は有名な所ですね。)により、磐越西線の地位は低下を余儀なくされます。
戦後に入ると首都圏よりの長距離列車も次第に縮小、1982=昭和57年に東北新幹線が開通するのと入れ違いに消滅した模様。
又大阪万博の頃に合せて動力の主戦だった蒸気機関車が引退、後継の気動車やディーゼル機関車も投入されますが、折からの自動車普及=モータリゼーションの進展と沿線の過疎化に見舞われ旅客、貨物とも縮小傾向を辿り、貨物業務は遂に今春、終焉を迎えてしまいました。
現在は当地のローカル、飯田線とさして変わらない風情となった磐越西線。ただ、線路条件は飯田線程の険しさはなく、又風光は負けない程の良好さを誇ります。
近代動力導入以前に活躍した蒸気機関車の残党が今も土休日を中心に頑張りを見せてくれるのも大きな魅力。もう1つはやはり、地元の方々の地域振興への真剣な姿勢と訪問者への暖かい視線、そして四季折々訪れる者を魅了する、酒気を含めた様々な味覚でしょうか。
今夜は大変に失礼致しました。次回より又、話を飯田線に戻す事と致します。*(山)*
盆が明けてからも酷暑が続きます。
今日日中には遂に、当地近隣の岐阜県多治見市と首都圏は埼玉県熊谷市にて、我国の高温記録が74年振りに更新されたとか。
何と40.9℃!記録された時刻は、本当に灼熱地獄だったのではないでしょうか。
事実、熱中症の犠牲となった方々もいらす様で、公共、個人の両サイドからの猛暑対策が必要の様です。せめて可能なのは、水分と休養を努めて多めにする位でしょうか。
さて今夏の拙特集日記は、今春逝去の母方の祖父母の軌跡を偲ぶ意味をも込め、母方の祖先が出身地の長野南信と居所たる東三河との往来に愛用したローカル鉄道、飯田線の事共を中心に綴っておりますが第7回の今夜は飯田線より少し離脱し、同線と沿線の条件の似た、私が年に何回か訪れている新潟磐越のローカル鉄道、磐越西線の事に少し触れようかと思います。
この鉄道は飯田線とほぼ同時期の19世紀末に構想着工され、1914=大正3年に当初「岩越線」として開通した由です。
その後1917=同6年に福島県の太平洋岸、現いわき市より郡山市までの所謂磐越東線の開通に合わせ、現名称の磐越西線を名乗る様になります。起点は福島県郡山市、終点は新潟県新津市で全長約176kmの全線が単線。郡山から途中の喜多方までの約80kmが電化されており、軌道幅員は勿論1067mm、電力方式は地方の幹線鉄道に多い単相交流20000V、周波数50Hzであります。
沿革を見てみますと、当初同線は大幹線たる東北本線より日本海側随一の主要都市新潟とを結ぶ幹線として計画施工され、東京上野よりの直通列車も少なくなく、又戦後もかなりの間、昼夜を問わず多くの貨物列車が運転されていた様です。
昭和に入ると首都圏と新潟を最短距離で結ぶ上越線の開通(同線は雪深い群馬・新潟県境の所謂上越国境を越える為、施工困難により戦前でもかなり後年の開通となりました。この区間を題材にした川端康成さんの小説「雪国」は有名な所ですね。)により、磐越西線の地位は低下を余儀なくされます。
戦後に入ると首都圏よりの長距離列車も次第に縮小、1982=昭和57年に東北新幹線が開通するのと入れ違いに消滅した模様。
又大阪万博の頃に合せて動力の主戦だった蒸気機関車が引退、後継の気動車やディーゼル機関車も投入されますが、折からの自動車普及=モータリゼーションの進展と沿線の過疎化に見舞われ旅客、貨物とも縮小傾向を辿り、貨物業務は遂に今春、終焉を迎えてしまいました。
現在は当地のローカル、飯田線とさして変わらない風情となった磐越西線。ただ、線路条件は飯田線程の険しさはなく、又風光は負けない程の良好さを誇ります。
近代動力導入以前に活躍した蒸気機関車の残党が今も土休日を中心に頑張りを見せてくれるのも大きな魅力。もう1つはやはり、地元の方々の地域振興への真剣な姿勢と訪問者への暖かい視線、そして四季折々訪れる者を魅了する、酒気を含めた様々な味覚でしょうか。
今夜は大変に失礼致しました。次回より又、話を飯田線に戻す事と致します。*(山)*