Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

見聞~夏の行路

2007-08-08 00:17:00 | インポート
我が故郷でもある愛知県豊川市。その市制施行は大戦中の1943=昭和18年夏でありました。戦時下での発足は、それは想像を絶する苦渋もあったかと思います。

市制施行の直前、1939=同14年にはこの地に大軍事施設、豊川海軍工廠が設置されます。
ここでは主に、旧日本海軍向けに武器弾薬を生産し、最盛期には数万人が働いていた由。製品並びに通勤輸送の為鉄道施設も勿論整備され、公式には1942=昭和17年春に豊川駅から北西方向に豊川鉄道、後飯田線西豊川支線が開業しており、現在の陸上自衛隊豊川駐屯地の東端すぐの所に、西豊川駅があった事を母から聞きました。もう今は跡形もない様ですが、私が幼少だった40年位前は、廃止となった駅の遺構が残っていた由です。

1945=昭和20年の終戦の年には、この豊川市も米合衆国軍による空襲の標的となりました。この年の8/7午前、折りしも飛来した120機を超える同国軍機の攻撃により、豊川海軍工廠はその機能を絶たれます。
建物施設は完膚なきまでに破壊され焼失、関係者の人的被害は犠牲2500名以上、負傷1万名以上と言う深刻なもので、8/15の終戦の詔勅まで僅か1週間と言う所での惨禍だっただけに、遺憾の思いは大きいものがありますね。因みに祖父母の同僚や母の同級生の中にも、犠牲となった方があった様で、以後毎年今日まで、被災した8/7にはこれら犠牲各位の追悼行事が行われています。

戦後の復興に当たり豊川市は、多くの製造企業の工場を誘致しました。豊川海軍工廠の跡地は今、陸上自衛隊、名古屋大学の研究施設、そして我国有数の鉄道車両&重機メーカーの各用地として有効に利用されています。それ以外にも旧海軍工廠跡地一角には、かなりの数の主要企業が工場などの拠点を置いています。軍事施設の開設が、その後の我が故郷の進路を予言していた様な所があったと言う事です。

西豊川駅は先の大戦終結により姿を消しましたが支線の方はずっと残り、車両メーカーより時々、新幹線を初め最新鋭の電車や機関車などがこの線路を通って活躍の場へと向います。この新車回送の日程は公表されている様で、新車両が工場を出る時は良く写真愛好者達が撮影に赴いている様です。
私も鉄道を初め乗物の写真は良く撮りますが、車名や型番にまで詳しく言及する質ではありませんので、工場を出発する模様まで撮ろうとは思いません。偶然の機会があれば別ですが・・・。

日付が変わってしまいました。今夜はこの辺にしましょうか。
最後に、故郷の戦没並びに戦災被害の方々にも感謝の一礼、そしてご冥福をお祈りしたく思います。*(日本)*


P.S 今月の特集日記は記事により、私の知友の方宛ての伝言の形を取る事があります。
とりあえずは北日本にお住まいのミーSANと、当地よりそう遠くない太平洋岸にお住まいのだーSANに宛てた記事とする日がある事を、予め申し上げておきます。*(山)*

コメント
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