Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

回想~夏の行路

2007-08-13 23:29:00 | インポート
ミーSAN今晩は。今日は北の方も暑さ厳しかった様ですね。当地名古屋も依然猛暑が続きます。
もう深夜に近い時刻ですが気温は30℃に近く、又毎夏恒例、夜の蝉の大合唱も相変わらず。やはり盆明けまでは暑さとの格闘が続きそうです。苦笑

さて今日日中、ご存知の様に今年初相次いで逝去した我が母方の祖父母の初盆行事に出席して参りました。賑やかな席の好きだった祖父の希望が叶い、親族のほぼ全てが顔を合わせての盆の初日となり、祖母のそれと共に、元気な祖父の語り声が今しも聞こえて来そうな雰囲気でした。

祖父母と共に長野南信出身の母は、折々にローカル鉄道飯田線の、幼少の頃よりの思い出話を聞かせてくれています。今の中学生時分の頃より、飯田の学校に通っていた為寮生活のやむなきとなり、豊川の実家との時々の往来に乗る飯田線の列車内の心細かった事。初めての乗車となった幼少時、長野・静岡の県境辺りがまだ開通前で、天竜川の川舟に乗り換えた記憶のある事、そして私の生まれる少し前、名勝天竜峡の近くで起きた土砂災害に列車が巻き込まれ、多くの犠牲を生じた惨禍のあった事・・・などなど。
この中でも「今は浜松市内となった静岡の佐久間の町を過ぎると、飯田線は無数のトンネルの出入りの繰り返しだった」との述懐は本物です。

豊橋を発った列車は東三河の主要河川、豊川(とよがわ)を渡って間もなく西へ向う東海道線や新幹線、名古屋鉄道本線と別れて北東に進路を取ります。先の大戦にて軍需輸送が必要だった事から豊川まで複線、その先は単線となって、織田鉄砲隊の活躍で知られる現新城市内の古戦場、長篠城址の辺りまでは田園や住宅地の交互に現れる平野部を走ります。
その先、湯谷温泉の辺りから次第に山間に入り、当地の主要リゾート地の1つ「愛知県民の森」の最寄り駅、三河槙原を過ぎると暫くは山がちの景観が続きます。
この間、沿線を流れる川は豊川水系から天竜川水系へと変わり、近年の熊の出没が問題となった東栄、電源開発で有名な佐久間、その佐久間ダム建設に伴う迂回ルートとなった水窪(みさくぼ)を過ぎ、長い大原トンネルを抜けた所が大嵐(おおぞれ)。
ここは長野・静岡・愛知の3県の境界に近い山間の小さな駅。前後にトンネルが控え、母の言葉が実感として伝わって参ります。

ここから天竜峡までの約35kmは正に話通りの「トンネルの出入りの繰り返し」であり、又地上に出た線路は天竜川の深い断崖の上を通ります。落石も少なくなく、見ているだけでちょっと冷汗の出る光景でもあり、又同線の建設に命を賭した方々の労苦が偲ばれる場面でもありますね。
実際に資料にて調べてみると、飯田線の開通はこの区間が最後であり、前述しましたが1937=昭和12年8月、当時の私鉄「三信(さんしん)鉄道」の路線として開通を遂げています。当時の我国では珍しかった、当初より電気鉄道として開業しています。
天竜峡より飯田までの間は又豊橋や豊川辺りの様な、飯田盆地の田園や街並みの中を走ります。
線路条件は大変険しいですが、その分風光は良く、今年は開通70周年とあって、例年より多くの方々が訪れている様です。

ご存知かも知れませんが、夏冬などの学校が長休となる時期限定の「青春18きっぷ」の有効時期である事や、石油製品の価格高騰に伴って、自家用車での遠出を諦めた方々が少なくない様であるのも、同線にとっての追い風となっているのかも知れません。*(山)*
コメント
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