人は誰でも人に言えない秘密の一つや二つ、いや三つや四つ、いや百や二百は持っている。
人生の一大事とか、人に話したらたちまち絶交とか、そういうたぐいの秘密ではなく、もう本当に些細な、どうってことない秘密ともいえないような秘密。
だったら今すぐにでも誰かに打ち明けたらいいじゃないか。
…と人は思うかもしれないが、でもどうしても言えない。
などとしきりに言いよどんでいるが、早い話、肉の脂身が好き、ということなのです。
言ってもわかってもらえないし、言えば軽蔑される。
でも言いたい、告白したい、というこの気持ち。
自分でもよくわかりません。
牛肉の脂身、豚肉の脂身、鴨南蛮の鴨肉の脂身、チャーシューの脂身、世の中にはこういう脂身が好きな人がたくさんいるはずです。
だけど彼らは、そのことを口にすることなくヒッソリと暮らしている。
脂身が好きな人は即ち下品な人、趣味がよくない人、卑しい人、人相がよくない人、鼻が低い人、という評価が世間にはある。
若い人同士の「脂身おいしいんだよね」という会話はまあ許されるが、老人同士で「脂身おいしいんだよね」という会話は気持ち悪がられるだけなのだ。
脂身の種類の中でも一番好きなのは、すき焼きのときの最初に鍋にこすりつける脂の塊。
消しゴムくらいの大きさで、白くて表面がヌメヌメと光ってて、全域脂、脂なきところなしという牛脂の塊。
あれを熱い鍋底に押し付けてジュージューいわせ、白かった全体が少しづつ透明になっていって、ついにうっすらと焦げ目がついたやつ。
仲居さんが取り仕切る店だと、それをポイと捨てちゃうやつ。
思わず「それ頂戴」と言いそうになるやつ。
あの塊を何のためらいもなく、堂々と威厳を損ねることなく「それください」と言える時代がやがてやってくるといいですよね。