コロナ禍の影響で、タダ酒を飲む機会が極端に減ってきた。
先日も例年通り地区の荒神祭りがあったが、祭りのあとの直会は密を避けるため中止。
宴会用の折だけ貰って帰り家飲みです。
はしもとの1500円の折
早くみんなと一緒にワイワイガヤガヤとした宴が開けるといいと思った。
コロナ禍の影響で、タダ酒を飲む機会が極端に減ってきた。
先日も例年通り地区の荒神祭りがあったが、祭りのあとの直会は密を避けるため中止。
宴会用の折だけ貰って帰り家飲みです。
はしもとの1500円の折
早くみんなと一緒にワイワイガヤガヤとした宴が開けるといいと思った。
世の中には「○○週間」と称するものがたくさんある。
「交通安全週間」とか「火災予防週間」、「動物愛護週間」とか各種団体各方面でいろいろと行われている。
一年間のうち、せめてその期間だけでもやる気を出させよう、士気を高めようという趣旨らしい。
「読書週間」というのもある。
ほかの習慣はともかく、読書の場合は「読書週間」だからといって士気が高まるものなのだろうか。
読書ってそういうものだろうか。
読書は集中力を必要とする。
しかしこちらは老体である。
集中力の衰えたわが頭脳は、はたして読書に耐えられるであろうか。
この世の思い出に、本物の文学とはどういうものだったのか、もう一度だけ確認してから死にたい。
だが老いた脳には、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のような純文学は無理である。
読みかけの本は、一晩寝るとそれまで読んだ内容をすべて忘れてしまって、また最初から読まなければならず、いつまでたっても読み終えることができないのである。
悲しきかな、これが今の現状なのである。
本日の一句
晩秋の 同じ本が 二冊かな
また同じ本を買ってしまった…
情けない…
毎年恒例ですが、農機具メーカーのヰセキの展示会のご案内があったので、同居ばばと一緒にお出かけ。
鍬とか鋤とか鎌とか高枝切りばさみとか、手短な農業用小道具を買うのには嬉しい展示会であります。
そんな中でも興味を引いたのが自走式草刈り機
今やラジコンが当たり前
大型トラクターになると1000万円級
農業も大金がかかる時代であります。
3密を避けた展示会
農機の進歩は素晴らしい。
自動運転や圃場のアップダウンもすべてコンピューターで平らにする技術が当たり前らしい。
恐るべき、日本の農業機械技術であります。
日本の政治を動かしているのは政治家と役人である。
政治家は役人を忖度し、役人は政治家を忖度する。
忖度(そんたく)とは、他人の心中をおしはかる、という意味。
忖度と損得は密接な関係にある。
役人は有力な政治家の心情を忖度して行動すれば出世という得を得られるし、政治家は役人の心情を忖度すれば政治的野心を通すことができる。
高校野球は全国の強豪が勝ち上がってきて、その頂点として甲子園で戦うことになる。
政治の場合は、忖度の強豪が全国から勝ち上がってきて、その頂点としての国会議事堂があるわけで、そこでの戦いぶりは当然のことながら正々堂々というわけにはいかない。
死闘あり、裏切りあり、仕返しあり、あびせ倒しあり、膝蹴りあり、送り出しあり、なんでもありのドロ仕合が繰り広げられて、あたり一帯はドロ沼化していく。
前総理大臣の森友や加計学園、桜を見る会の問題はどうなってしまうのだろう。
コロナ禍のどさくさに紛れてあまり話題にされなくなってきたが、自殺者まで出しておいて、まさか暗闇の中に放り込んで臭いものには蓋をしてしまうのでしょうか。
本日の一句
籠池や 昭恵飛び込む 水の音
お粗末…
もういくつ寝るとお正月。
なんてまだいささか早すぎるけど、巷ではそんなこんな(コロナ禍)でお正月休みが気になる時期になりました。
ところでお正月というのは、めでたいんだか、めでたくないんだか、よくわからない。
子供のときは、お年玉がもらえるし、美味しいものを食べられるから、正月が終わるとがっかりしたものだった。
だが歳を重ねると、ほとんど正月なんかどうでもいいような気になってくる。
紅白歌合戦のド派手な小林幸子をコタツの中から眺めるのは、もうやめにしたいと思っている。
正月三が日のテレビから流れてくる、「おめでとうございます」という言葉を聞いても、ちっともおめでたくなんかない。
正月なんか、ちっともめでたくなんかない、歳をとるばっかしだし。
なんてぐちったら、人間性ができている友達は、にっこり笑いながら…
「違いますよ、無事に新年を迎えられたらありがたいと思わなくちゃ」
「自分たちはもう、新年がむかえられてよかったと思えるような年齢に、足の先を突っ込んでいるんだから、そう考えたほうがいいよ」
といった。
確かに正論である。
正月が楽しいとか、そういうことではなく、正月を迎えられることに感謝しなければならない年齢。
どんなかたちであれ、新年を迎えられたらありがたい、と思わなければバチが当たるのかもしれない。
正月は一方的に向こうからやってくるのだから。
あーあ。
東出雲町、めんふぁん食堂のテイクアウトで昼飯。
アジフライ弁当
ご飯大盛りでも税込み500円は、コンビニ弁当と比べてもお値段ばかりではなく、お味のほうも遥かにしのぐ。
テイクアウト全メニュー制覇まで数か月かかると思われるが、その都度報告したいと思うのであります。
少し早いけど、今年も一年を振り返るような時期になってしまった。
今年はとにかくコロナ禍で始まり、コロナ禍で終わる年であったのかなぁ、と思う。
毎日いろいろなことがある。
仕事がうまくいって気分がいい日もある。
予期せぬ悲しい知らせが舞い込んだ日もあった。
さまざまな気持ちを抱えて自宅へ帰る。
ひとっ風呂浴び、風呂から出てタオルを取り上げ、とりあえずそれを顔に当てる。
ふわふわしたタオルには安心のひととき。
シアワセのひととき。
こんなささやかなヨロコビが、何気なく繰り返す日常において最もありがたいことだと思うのであります。
日本はこれから老齢化がどんどん進んで、世の中に老人があふれる時代がやってくる。
今でもあふれているのだが、更にあふれてくる。
老人は金はないが暇はある。
こうした金はないが暇はある老人のレジャーとして、いっときゲートボールが流行ったが、いつの間にか廃れた。
団体で何かをする、というのは頑固な老人たちには向かなかったのか、はたまた高齢になって動けなくなったか…
どちらかであろうと思われる。
なれば一人で、暇な時間に金をかけずに楽しく過ごすにはどうしたらいいか。
定年退職後に蕎麦を打つのもいいが、鉛筆を削る、というのも悪くないと思う。
心静かに鉛筆を左手に持ち、右手に持ったナイフの刃先を鉛筆の木部に当てる。
ナイフの背のところに左手の親指を当て、親指に力を込めて押していくと…
刃先はズリズリと木部を削っていって、一片の木屑がハラハラと下に落ちる。
ズリズリのところが楽しい。
そして懐かしい。
そうそう、かつてはこうやって鉛筆はナイフで削ったものだった。
木材とナイフの刃の相性の良さを改めて思い知る。
毎日5本、時間を決めて心静かに鉛筆を削る。
そして紙に俳句を書く。
キーボードで字を打つのではなく、鉛筆で紙に書くのが風流。
本日の一句。
若人は 万年筆を 知らんがな
季語がない。
お粗末。
「密はいけない」、ということになった。
「疎がいい」、ということになった。
疎とは「まばら」ということであり、「隙間」という意味でもあり、つまりディスタンスのことである。
コロナ禍でそういうことになった。
価値観というものは時代によって変わる。
どんどん変わる。
常に身構えていないと、そういう変化に気がつかないで恥をかくことになる。
コロナ禍以前の「密」は良いことに使われることが多かった。
「親密」「緻密」「濃密」。
いずれも好ましい状況を表している。
「密接」「密集」「密閉」の3密だってコロナ禍までは別に悪い意味ではなかった。
なので三者ともノホホンと暮らしていたら急に悪者にされてしまった。
「油断も隙もない」という格言があるが、これからの時代はまさにそういう時代になった。
「隙間」はディスタンスということだった。
コロナ禍の時代はディスタンスが大切、ということになった。
ディスタンスは「良いこと」ということになった。
だけど「油断も隙もない」の「隙」は「良くないこと」の意味で使われている。
「隙を見せる」の「隙」は、人に見せてはいけないものとして使われている。
もともとは悪者だがコロナ禍時代は良い者。
やはり時代とともに価値観は変わる。
「昨日の悪者が今日は覇者」、なんてこともアリの時代。
時代の早い流れにはついていけなくなってきたが、遅い流れは何とかついきたいと思うじじなのでした。