はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

自分の立ち位置

2009年06月13日 | はなこ的考察―良いこと探し
私は今から20年近く前に中東に3年間赴任しました。海外赴任と言えば、欧米諸国への赴任が圧倒的に多く、その意味では中東は非主流と言えます。ところが、それが私には良かった。

今日、米メトロポリタン・オペラの新人発掘オーディションのドキュメンタリー映画を見て来ました。帰宅後、気になった出演者についてググってみたところ、ヨーロッパのオペラ通と思われる人のブログに行き当たりました。その人の言葉を借りれば(スカラ座批判を展開する米国人若手オペラ歌手に対し)「米国人は自分を中心に世界が回っていると思いがち。米国のオペラのレベルはヨーロッパでは通用しない」。あくまでも長い歴史を有するヨーロッパは、文化的にも米国に優ると言うことでしょうか?ことオペラに関しては、ヨーロッパが発祥の地でもあります。米国は必死に追いつき追い越そうという立場。しかし、その差はなかなか縮まらないぞ、という自負が、ヨーロッパの側には見え隠れする。

逆に、米国の側から見れば、古い歴史を持つがゆえの見栄やしがらみを、ヨーロッパに感じるのかもしれません。実力だけでは頭角を現せないアンフェアな雰囲気も。その文化の底に階級差別や人種差別や民族差別を感じ取るのかもしれません。

しかし、両者共、国際舞台の主流です。実際にはそこに中国(中華圏)が加わるのですが。実はそうした「主流」の中に身を置かないことで、世界を実効支配する主流の考え方にある一定の距離を置き、それを客観的に見ることができるような気がします。

人間は誰しも、身を置いた場所には愛着を覚える。自らそこに同化しようとする。その思想・価値観に染まろうとする。それが「主流」なら、なおさらです。しかし、その時点で、それが正しいのか否か(厳密に言えば、普遍的価値を有するものなのか否か?)「疑うこと」を止めてしまいがちかもしれない。さもなくば、そこで生活すること、生きて行くことは困難を伴うでしょうから。

ただし、「主流」自体も多数の「亜流」「傍流」(=非主流?!)を内包しており、そのどこに身を置くかで、また違った見方、感じ方が生まれて来るものでしょう。さらに自身の(日本人なら日本人としての)アイデンティティとの葛藤もあるに違いない。その辺りも考慮しないと論は不十分でしょうね。

「主流」即ち「多数派」は、全てにおいて、数と力にものを言わせて(←数は力、ですね(>_<))自分達の思い通りにしようとします。そして、その殆どが叶う。さらに「多数派」は、自らの思いが叶った時点で、「少数意見」を顧みることは殆どありません。常に「多数派」が正しいとは限らないのに。

逆に「非主流」に身を置いた場合、その主張はなかなか通らないが故に、常に「主流」を意識せざるを得ません。そこで常に「非主流」と「主流」の主張のどちらが正しいのかを自問自答することになります。常に自分の中で葛藤があるのです。必然的に「考えること」を強いられるのです。

私のような「怠惰な者」は、「非主流」に身を置いたおかげで、「疑うこと」「考えること」を忘れずにいられるようになったのです。中東からは、西欧もアフリカもアジアもよく見えます。逆に「主流」の中に身を置いた場合、「非主流派」以上に意識的に、自らの「誤謬性」を常に問い続けて行く努力が必要なのだろうなと思います。
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