はなこのアンテナ@無知の知

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【感想】十三人目の刺客?もとい『十三人の刺客』Ver.2

2010年09月29日 | 映画(今年公開の映画を中心に)
 ベネツィア国際映画祭でも好評だった(上映終了後、7分間に及ぶスタンディングオベーションだったらしい)と言う三池崇史監督、役所広司主演の『十三人の刺客』を見て来た。今から47年前の1963年に公開された『十三人の刺客』(工藤栄一監督、片岡千恵蔵主演)のリメイクらしい。本作は、密かに集められた十二人プラス一人の刺客が、暴君の名を欲しいままにする、将軍の腹違いの弟で明石藩主の松平斉昭の暗殺を企てる、と言う物語である。

 私は過去の古い映画(特に邦画の時代劇)には疎いので、殆ど予備知識なしに本作を見て(オリジナル作品は未見)、感じたことだけを書き留めようと思う。

 男臭い映画だ。男性の雄々しさや躍動感を描くのが得意な監督なのだろう(『クローズ ZERO』もそうだし…)。一応役所広司が主演となっているが、他十二人の刺客をはじめ、味方・敵方の登場人物、それぞれの人物造型がしっかりと描かれており(←所謂、キャラが立っている、と言うヤツ?)、随所に各々の見せ場も用意された群像活劇と言った趣。

 素人目に、伊原剛志の剣豪ぶりは板についていたし、古田新太の槍遣いもなかなかのものだった。山田孝之は武士の世界に懐疑的な放蕩の剣士を若手演技派として手堅く演じていたし、バラエティ番組ですっかり三枚目キャラを印象づけた沢村一樹も、今回は二枚目に徹して良かった。高岡蒼甫も友情に厚い凛々しい青年武士を演じて好印象。眼鏡なしの六角精児は軽妙なキャラを演じて、全体としては重苦しい雰囲気に笑いを添えた。

 他の若手俳優の好演も、邦画の将来に期待を抱かせるものだったと思う。これだけ、それぞれのキャラクターが脳裏に焼き付いているということは、監督の的確な演出、俳優陣の健闘もさることながら、今回、脚本を手がけた天願大介(この人は高名な父親・今村昇平の七光りを嫌って、大学時代に出会った妻の姓を名乗っているようだが、現状、よほどの人気監督でない限り、映画製作のチャンスは中々巡って来ないのだろうか?全ての経験を血肉にして、いつの日か素晴らしい作品を作って欲しい)の、それぞれの俳優の個性を生かした台詞回しが奏功したと言うことなのだろうか?

 おっと!本作のキーパーソンとも言うべき十三人目を忘れちゃいけない。”十三人目の刺客”は特に個性が際立つ。本作は武士達の勇猛果敢な戦いを描きつつ、彼(→人間離れした存在感が意味深)の言葉を借りて、武士の硬直した死生観や世界観を嗤っているようにも見える。彼らの戦いはまさに、江戸幕府の終焉に向かうカウントダウンの最中(さなか)にあった。封建社会も、いい加減、制度疲労を起こしていたというわけか?

 個人的にニヤリとしたのは、時代劇俳優としては既に大御所の域にあるであろう松方弘樹の起用。このところ、外洋でマグロ釣りに励む太公望としての姿ばかり目にしていたので、彼の見事な殺陣を見たのは久しぶりだ。昨今のドラマ不況で、彼のような往年の時代劇スターの活躍の場は限られているが、彼の豪放磊落な佇まいと華麗な剣捌きは時代劇に華を添える。何より彼自身が水を得た魚のように活き活きと演じていた。まだまだ力はある。もっと出演機会があっていいはずだ。 

 逆に男性の格好良さ、華々しさに比べたら、女性は時代考証に忠実に基づく既婚女性のお歯黒に青眉(セイビ:明治の頃まで続いた既婚&子持ち女性が眉を剃る習慣)等、その描写があまりにもリアルで、現代人の美意識とは程遠いせいか、画面のザラザラとした質感も相俟って、気の毒なほど美しくない。さらに暴君に貶められる被害者としての側面を強調していることもあってか、時にグロテスクな描写もあり、神経の細やかな人には耐え難いものだろう。血しぶきの量も半端でない。

 それでも、50分に及ぶと言う戦闘シーンの迫力やスケールは一見の価値がある。

 役所広司演じる島田新左衛門は「斬って、斬って、斬りまくれ」と叫んで、闘いの口火を切った。

 13人の刺客(+斉韶の暴走を止めるべく立ち上がった無数の人々のバックアップ)に対し、敵方はオリジナル版53人の数倍に当たる300人!多勢に無勢の劣勢を跳ね返すべく宿場町に張り巡らされた数々の仕掛けと、命を賭した13人の凄まじい闘志。まさに目の前で繰り広げられる死闘に、緊張しっぱなしの50分間なのだ。

 人間誰しも、小が大を倒すのを見るのは小気味良いものだ。勧善懲悪の物語には溜飲を下げるだろう。ただ、本作が描いているのはそれだけではない。

 島田と、藩の学問所でも道場でも同門で、実力が拮抗していた鬼頭半兵衛は、その出自が下級藩士であるが故に、旗本の出である島田への対抗心もあって、今や敵方で立身出世を夢見て暴君に盲目的に仕えている。良心に蓋をして、鬼畜としか言いようのない主君に盲従する鬼頭の生き様は、哀れですらある。

 この鬼頭を演じたのは、誰あろうミュージカルスターの市村正親。私は彼が好きで、彼の舞台を何度か見ているが、その軽快なステップたるや、年齢を超越している。今回も役所広司との年齢差(61才と54才で7才差)を感じさせない力強い演技で、戦国の世にあらざる中、忠君を貫くことで武士としての生き甲斐を見い出す、サラリーマン武士の悲哀を見事に表現していた。

 ところで、今回、暴君を演じた稲垣吾郎の評判がすこぶる良い。勧善懲悪物語は悪役が光ってこそ主役が引き立つ。その意味では稲垣吾郎のキャスティングは大正解だったと言えるだろう。が、しかし、言われるほどの名演だろうか?寧ろ私は、彼の俳優としては欠点とも言うべき”表情の乏しさ””語りの抑揚のなさ”が、冷酷無比の暴君の体温の低さを表現するのにピタリと当て嵌まったのだと思った。悪辣非道の限りを尽くしても、一切表情を変えない暴君。その無表情と抑揚のない物言いが、暴君の内面への想像をかき立て、悪役・稲垣吾郎の存在感を観客に強く印象づけたとは言えないか?

 最後に、監督一流の遊び心なのかもしれないが、悪ふざけにも取れるシーンがあった(そこもタランティーノのオタク心をくすぐるのか?)。何と言うか、終始一貫ハードボイルドに徹すれば良いものを、敢えて緊張の糸を切るようなお下劣さ。別にそこで野卑な笑いを取らなくても良かったのではと個人的には疑問に思う。映画は監督のもの(=最終的に全ての責任を負う?)だから、まあ、いいんですけどね。なくても十分映画として成立したと思うので、それこそ”蛇足”ではないかと。少なくとも私は「なんじゃ、こりゃ?」と戸惑ったのは確か。


【追記 2010.10.10】ネタバレ注意!

 昨日、トム・クルーズ、キャメロン・ディアス主演の『ナイト&デイ』を見て来たが、劇中スペインの街中で繰り広げられる派手なチェイス・シーンがあった。そこで迫力を加味したのは、現地名物「牛追い祭り」で街中を爆走(笑)する牛達であった。さほど広くない街路で主人公が駆るバイクと敵方の車と牛の三つ巴。絵的にはかなり面白い。

 そこで思い出されたのが、本作でも登場した牛だ。同じ爆走でも、本作はCGの牛。しかもCGの予算をケチったのか、すぐに作り物とわかる完成度。これでは興ざめである。中途半端なCGの牛なら、はっきり言って要らない。本作鑑賞時も気になったのだが、比較検討できるシーンに偶然出くわして、改めて本作の粗が目立ってしまった格好だhekomi



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