人に優しく。
たぶん最近、どこかで目にした、或いは耳にしたフレーズなのかもしれない。なぜか、このフレーズが頭から離れない。
最近、身近で"いじめ"を目撃したからかもしれない。
大人になっても人間て、懲りずに弱い者いじめをするもんなんだな。いい年した大人の女達が少女時代の延長でつるんで、他人に特定の人の悪口をいいふらし、帰属する集団から排除しようとしている。いろいろ理由はあるんだろうけれど、傍から見ると、気に入らない人間をいじめているようにしか見えない(ついでに言うと、私は「女子会」なる言葉が大嫌いだ。人間はどうしても自分の使う言葉に縛られる。支配される。その原理で考えれば「女子会」は、女性の成熟化を妨げている。少女還りを促している)。
道理で、子どもの世界でもいじめはなくならないわけだ。しかも、いじめる側の人達は根っからの悪人でもない。優れた能力を持ち、素晴らしい一面も持った人達なのだ。それだけに、とても残念だ(ここで断っておきますが、このことで彼女達を嫌いになることはないです。なぜなら、すべてに完璧な人間など存在しないし、かくいう私も短所を幾つも持った人間だからです。ただし、いつ、その攻撃の矛先が私に向けられるか知れない、と言う不信感は芽生えてしまったかもしれない…)。
そうしたいじめへの対抗策は、彼女達の悪口に同調しないことだ。悪口の対象になっている人物を色メガネで見たりせずに、今までと変わりなく付き合うことだ。
『負け犬の遠吠え』で知られるエッセイスト酒井順子女史は、その著書『下に見る人』で、僅かな差異をことさら大きく捉えて他人を格付けし、帰属する集団から異質な存在を排除しようとする(著者自身も含めた)人間の"業"のおぞましさを、個人的体験を淡々と綴りながら分析していたけれど、人間は所詮そんな生き物なんだと端から諦めて良いはずがない。
言うまでもなく、人間の能力には個人差がある。思うに、それは生まれながらのものに、環境や教育機会の差や本人の性格等、さまざまな要因が相俟って生じたものだろう。
それでは、その能力差は人間の存在価値を決定づけるものなのか、と言えば、そんなことはないはずだ。そもそも能力と一口に言っても、実際はさまざまなバリエーションがあるだろう。社会で求められる能力も、時代や社会の在り方によって変わるはずだ。
一般に現代社会において重視される仕事の効率性で言えば、「情報処理能力」「判断力」「注意力」「問題発見&解決能力」などが問われるんだろうけれど、それが多少劣るからと言って、それで個人の存在を全否定されるいわれはないと思う。
もし、チームで仕事をするなら、(人命や組織の存亡に関わる事など)よほど重要な仕事でない限り"少数精鋭"である必要もなく、志のある何人かが寄り集まって、その中の能力のより高い者が低い者をサポートすれば良いだけの話。たとえ個々のメンバーにとりこぼしが発生したとしても、他のメンバーのリカバリーで、無事に仕事の目的が達せられたなら、それで良しとする。チームで働くと言うことは、つまり、そういうことなのではないか。殆どの組織が、実質そんなものなのではないか?
私自身、特段能力が優れているわけではない。だから、「あの人は能力がない」とか誰かが、誰かを罵っているのを耳にすると、まるで自分が罵られているかのように思えて、心が苦しくなる。特に、身近な人の悪口は聞きたくない。
想像してみて欲しい。
世の中、秀才ばかりで(結局、その中でもちょっとした差異で格付けがなされるんだよね)、常に他者に負けじと切磋琢磨し、競争の絶えない社会を。
常に効率優先で、それを妨げる存在を容赦なく排除する社会を。
うわぁ、殺伐としている…
常に競争に晒される状態では、緊張感で神経が磨り減ってしまいそうだ。自分で自分の命を削るようなものだ。実際、そのような社会は高ストレス社会で、自殺者も多い。
仮に現在、心身共に健康で頭脳明晰でも、いつ何時、事故や病気で、社会的弱者になるか知れない。さらに、誰もが確実に年を取り、衰えて行く。
未来永劫、絶対強者でもない自分を自覚してもなお、自分より「格下」(と、自分で思っているだけ)の人を、「能力が劣るから関わりたくない。一緒に仕事したくない」と言えるのだろうか?
「格下」と見ている人物の意欲や努力は、一切評価しないのか?
結局、他人の失敗を許せないのは、自分の心が「寛容さ」を失っているということではないのか?(キリスト教の観点から言えば、それは自分自身に「愛」が足りない状態、人を思いやれる余裕が心にない状態なんだろうね)
他人の失敗が許せない時、それは本当に許し難いことなのかと、まず、自分の心に問いかけるべきではないのか?(聖書には「貧しい者は幸い」など、逆説的な表現が多いけれど、それは謙虚に自分自身を見つめ、自分の足りない部分を自覚する者こそが、神に愛される存在と言いたいのかなと、私なりに解釈している。別にクリスチャンではないけれど)
因果応報。人に厳しくすれば、それはいつか自分に返って来る。結局、自分で自分の首を絞めることになる。
人に優しくすれば、それもいつか自分に返って来る。思いがけず、人の情けに救われることがあるかもしれない。「情けは人の為ならず」の原理である。
人に優しく(自分には多少厳しく)。結果的に、それが自分も他人も生かすことになるのではないか。
「人に優しく」することは、自分自身が人間として抱える"業"との闘いなのかもしれないけれど、だからこそ、私は行動規範として「人に優しく」を心がけたい。他人を変えようと直接働きかけるのでなく、自分の考えは、自分の行動で示すしかないと思っている。
なぜなら人間は謙虚に他者から学ぶ姿勢がなければ、何の気づきも得られないし、自分で変わろうと思わない限り、変われないから。50年余り生きて来て、そんなことをつくづく思う。
類似したテーマの本ブログ中の記事:「このままで良いのか?」
たぶん最近、どこかで目にした、或いは耳にしたフレーズなのかもしれない。なぜか、このフレーズが頭から離れない。
最近、身近で"いじめ"を目撃したからかもしれない。
大人になっても人間て、懲りずに弱い者いじめをするもんなんだな。いい年した大人の女達が少女時代の延長でつるんで、他人に特定の人の悪口をいいふらし、帰属する集団から排除しようとしている。いろいろ理由はあるんだろうけれど、傍から見ると、気に入らない人間をいじめているようにしか見えない(ついでに言うと、私は「女子会」なる言葉が大嫌いだ。人間はどうしても自分の使う言葉に縛られる。支配される。その原理で考えれば「女子会」は、女性の成熟化を妨げている。少女還りを促している)。
道理で、子どもの世界でもいじめはなくならないわけだ。しかも、いじめる側の人達は根っからの悪人でもない。優れた能力を持ち、素晴らしい一面も持った人達なのだ。それだけに、とても残念だ(ここで断っておきますが、このことで彼女達を嫌いになることはないです。なぜなら、すべてに完璧な人間など存在しないし、かくいう私も短所を幾つも持った人間だからです。ただし、いつ、その攻撃の矛先が私に向けられるか知れない、と言う不信感は芽生えてしまったかもしれない…)。
そうしたいじめへの対抗策は、彼女達の悪口に同調しないことだ。悪口の対象になっている人物を色メガネで見たりせずに、今までと変わりなく付き合うことだ。
『負け犬の遠吠え』で知られるエッセイスト酒井順子女史は、その著書『下に見る人』で、僅かな差異をことさら大きく捉えて他人を格付けし、帰属する集団から異質な存在を排除しようとする(著者自身も含めた)人間の"業"のおぞましさを、個人的体験を淡々と綴りながら分析していたけれど、人間は所詮そんな生き物なんだと端から諦めて良いはずがない。
言うまでもなく、人間の能力には個人差がある。思うに、それは生まれながらのものに、環境や教育機会の差や本人の性格等、さまざまな要因が相俟って生じたものだろう。
それでは、その能力差は人間の存在価値を決定づけるものなのか、と言えば、そんなことはないはずだ。そもそも能力と一口に言っても、実際はさまざまなバリエーションがあるだろう。社会で求められる能力も、時代や社会の在り方によって変わるはずだ。
一般に現代社会において重視される仕事の効率性で言えば、「情報処理能力」「判断力」「注意力」「問題発見&解決能力」などが問われるんだろうけれど、それが多少劣るからと言って、それで個人の存在を全否定されるいわれはないと思う。
もし、チームで仕事をするなら、(人命や組織の存亡に関わる事など)よほど重要な仕事でない限り"少数精鋭"である必要もなく、志のある何人かが寄り集まって、その中の能力のより高い者が低い者をサポートすれば良いだけの話。たとえ個々のメンバーにとりこぼしが発生したとしても、他のメンバーのリカバリーで、無事に仕事の目的が達せられたなら、それで良しとする。チームで働くと言うことは、つまり、そういうことなのではないか。殆どの組織が、実質そんなものなのではないか?
私自身、特段能力が優れているわけではない。だから、「あの人は能力がない」とか誰かが、誰かを罵っているのを耳にすると、まるで自分が罵られているかのように思えて、心が苦しくなる。特に、身近な人の悪口は聞きたくない。
想像してみて欲しい。
世の中、秀才ばかりで(結局、その中でもちょっとした差異で格付けがなされるんだよね)、常に他者に負けじと切磋琢磨し、競争の絶えない社会を。
常に効率優先で、それを妨げる存在を容赦なく排除する社会を。
うわぁ、殺伐としている…
常に競争に晒される状態では、緊張感で神経が磨り減ってしまいそうだ。自分で自分の命を削るようなものだ。実際、そのような社会は高ストレス社会で、自殺者も多い。
仮に現在、心身共に健康で頭脳明晰でも、いつ何時、事故や病気で、社会的弱者になるか知れない。さらに、誰もが確実に年を取り、衰えて行く。
未来永劫、絶対強者でもない自分を自覚してもなお、自分より「格下」(と、自分で思っているだけ)の人を、「能力が劣るから関わりたくない。一緒に仕事したくない」と言えるのだろうか?
「格下」と見ている人物の意欲や努力は、一切評価しないのか?
結局、他人の失敗を許せないのは、自分の心が「寛容さ」を失っているということではないのか?(キリスト教の観点から言えば、それは自分自身に「愛」が足りない状態、人を思いやれる余裕が心にない状態なんだろうね)
他人の失敗が許せない時、それは本当に許し難いことなのかと、まず、自分の心に問いかけるべきではないのか?(聖書には「貧しい者は幸い」など、逆説的な表現が多いけれど、それは謙虚に自分自身を見つめ、自分の足りない部分を自覚する者こそが、神に愛される存在と言いたいのかなと、私なりに解釈している。別にクリスチャンではないけれど)
因果応報。人に厳しくすれば、それはいつか自分に返って来る。結局、自分で自分の首を絞めることになる。
人に優しくすれば、それもいつか自分に返って来る。思いがけず、人の情けに救われることがあるかもしれない。「情けは人の為ならず」の原理である。
人に優しく(自分には多少厳しく)。結果的に、それが自分も他人も生かすことになるのではないか。
「人に優しく」することは、自分自身が人間として抱える"業"との闘いなのかもしれないけれど、だからこそ、私は行動規範として「人に優しく」を心がけたい。他人を変えようと直接働きかけるのでなく、自分の考えは、自分の行動で示すしかないと思っている。
なぜなら人間は謙虚に他者から学ぶ姿勢がなければ、何の気づきも得られないし、自分で変わろうと思わない限り、変われないから。50年余り生きて来て、そんなことをつくづく思う。
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