はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

若者よ、岡本太郎を読むべし!

2011年10月17日 | 読書記録(本の感想)
 岡本太郎はその著書『自分の中に毒を持て』(青春文庫)の中で、こう述べている。

 「成人式は文明社会では祝うべきものだけど、本来はただ祝って楽しんですむものじゃない。厳粛に、きびしく、「社会」と言うものをつきつける、イニシエーション(通過儀礼)であるべきだ。」

 日本では毎年恒例のように、マスメディアで「荒れた成人式」の模様が報道される。成人としての自覚に著しく欠けた幼稚な新成人の醜態を、ここぞとばかりに見せつけて、マスメディアは「イマドキの若者批判」を展開する。

 しかし、成人年齢に達した青年男女を、いつまでも子ども扱いしているのは、周りの大人や社会に他ならない(って書いている私はかなり自虐的ase)。若者批判の急先鋒に立つマスメディアだって、結局その片棒をしっかり担いでいるのではないか?

 成人式の式典や、その後に開催される同窓会用に、スーツや豪華な晴れ着を用意してあげることに、何の疑問も持たない大人達。大都市では式典も形骸化し、来賓の祝辞に、最初から最後まで真摯に耳を傾ける新成人は、果たしてどれだけいるのだろう?
 
 祝賀ムード一辺倒の先進国の成人式では、これから立ち向かう社会への畏れも、成人としての覚悟も、新成人に対して持てと言うのがそもそも無理な話なのではないか?

 太郎は昔取った杵柄で「民俗学(文化人類学的?)」的見地から、その対極にある南米アマゾンの成人式を紹介している。

 「南米アマゾンの奥地のある種族では、蜂をいっぱい袋にいれて、この袋を若者の皮膚にぱっと押しつけたりする。一匹に刺されても痛いのに、失神するほどの猛烈な苦痛だ。その痛みをもって、大人社会の~生きていく責任とはこういうものだと教えているわけだ。またなかには深い森に若者を放って、若者はそこで自分ひとりの力と知恵で生きぬいて、帰ってこなければならないとか。奇怪なマスクをかぶった祖霊におどかされたり、恐ろしい儀式を課している種族もある。

 そのほかに入墨をしたり、割礼をおこなったりさまざまだ。入墨をされる若者はその痛さに耐えながら、成人のきびしさと誇りを知るわけだ。」


 そして、文明社会の成人式のふがいなさを嘆いている。

 「文明社会の成人式は、あまりにも形式的で、甘すぎる。はたちになれば、もう腐った大人だ。<中略> こんな形式的な儀式で大人としてきびしさに立ち向かっていく感動がわいてくるわけがないじゃないか。」

 岡本太郎の著作には、熱く鋭い芸術論に混じって、こうした辛辣な、(正直言って耳が痛いと言うか、マゾッ気が刺激されるというか…)しかしかなり的を射た、文明批評や人生訓が数多く散見される。私など、もっと早くに出会っていたなら、また違った人生を歩んでいたかもしれないと思わせられる、力強いメッセージがてんこ盛りなのだ。

 だからこそ、太郎の著作は是非、若者は読むべきだと思う。きっと自らの現状に納得が行かず、進むべき道に迷っている若者の背中を、力強く押してくれることだろう。


 今年は岡本太郎生誕100周年と言うことで、東京国立近代美術館で大回顧展が開催されたのを皮切りに、彼の著作が改めて注目され、書店の一角にコーナーが設けられたり、平積みされているのを見た人もいるはずだ。

 実は、私は美術家としての彼ではなく、彼の著作に心酔した人間のひとりだ。思想家としての彼は、彼の美術作品と同等にエネルギッシュで、魅力的である。

 晩年のテレビ出演時に、目を剥いて「芸術は爆発だっ!」と叫ぶ等、独特の口調や表情が、彼をよく知らない人々にはどこかエキセントリックな人物と言う印象を与えてしまったかもしれないが、数々の著作から読み取れる彼の人物像は、勉強家で、読書家で、思慮深く、洞察力鋭く、知性に溢れた「知の巨人」とも言うべき面と、いつまでも童心を忘れぬ旺盛な好奇心と、人懐こさを兼ね備えた魅力的な人物、と言うに相応しい。

 彼は風刺漫画家の岡本一平、歌人で作家のかの子と言う、当時としてはかなりセレブリティで、才能豊かで、同時に破天荒だった両親の間に、一人息子として生を受けた。

 彼は小学校で転校を何度も繰り返しているが、それは個性的な両親の下で、幼い頃から一人の人間として対等に扱われて来た太郎にとって、教師に盲従しなければならない学校の体制に我慢がならなかったからのようだ。私の目には、著作の中で、同級生の中で抜きんでて早熟で聡明な彼が、孤独に喘いでいた姿が印象的だった。その後、彼はやっと理解ある教師と出会い、慶應義塾幼稚舎に落ち着くと(←この頃の慶応はよほど鷹揚だったのか、それとも子どもの個性に理解のある私学だったのか…)、普通部を経て、東京美術学校に入学した。

 両親の洋行に帯同する形で、東京美術学校を休学してパリを訪れた太郎は、フランス語を全く解さない状態から、現地の中学でフランス語を学び、半年後にはソルボンヌ大学に入学している。

 大学では、中学の頃から彼の頭をもたげていた「何のために絵を描くのか?」と言う疑問に多角的に向き合うべく、哲学・社会学・精神病理学・民俗学を学んでいる。その幅広い学びこそが、後年、彼の思想に広い視野と、深い思索と、柔軟な思考を与えたのではないか。その彼をひとり残して、両親は2年後にはパリを離れてしまったが、太郎の在仏はその後8年にも及び、彼の帰国を待たずに母かの子は病死してしまう(母はかなり奔放な人だったようで、彼との母性的な結びつきは希薄な印象~通常の母子関係とはかなり異なったもの。太郎が気の毒なくらい~だが、その聡明さは確実に太郎に受け継がれているように思う)

 彼のパリ時代の交流はまさに絢爛豪華と言っていい。ピカソ、マックス・エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、アンリ・ショ-、カンディンスキー、モンドリアン、ドローネー、ジョルジュ・バタイユ、アンドレ・マルロー、アトラン、パトリック・ワルドベルグと、その名を歴史に残すような面々と、日々カフェやアトリエで論を交えていたのである。

 天才は天才を呼ぶと言われるが、パリがアートシーンの中心にあったその時代に、太郎がパリにいたと言うことは、彼もまた、時代やパリに招かれた天才の一人だったのかもしれない。
 
 そんな太郎の思想の片鱗に触れて、ひとりでも多くの若者が覚醒して欲しい。


 先頃この世を去ったもうひとりの天才、スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式での伝説的なスピーチも、多くの時間とチャンスを目の前にしながら、一歩踏み出すことへの不安が拭えない若者を、力強く励ます素晴らしい内容だと思うhorori翻訳付きの動画でどうぞgood

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式におけるスピーチ


【先日BBCニュースを見て思ったこと】

 現在フランスで開催されているG20へのアピールとして、世界各地で一斉に行われた"格差社会への抗議"デモで、日本の参加者の少なさが気になった。特に各国でデモの先頭に立っているのは若者だ。

 ここ日本でも、特に社会保障で世代間格差が問題になっているのに、一番の被害者である若者はなぜ声を上げない?この理不尽な現状に怒りの感情は湧かないのか?

 そもそも若者に対して、社会システム崩壊のしわ寄せが集中しているのは、若者が政治に無関心で、自らの意思を投票という形で政治に訴えないから、と言うのも理由のひとつだ。ただでさえ少子化で世代別で占める人口の割合が小さな若者は、それこそ全員が投票行動に出ない限り、若者の意見は政治の世界に反映されにくいだろう。

 若者の政治への無関心、選挙における投票率の低さは、自分達も社会の一員であり、自分達の行動ひとつで社会を変えることができるという自覚が、今の日本の若者には欠けていると言うことではないのか?

 「どうせ、自分が何をやったって、世の中変わりっこない」と端から諦めて、自分の殻に閉じこもっているのか?日々、大学に行き、会社に行っても、自分の帰属するカテゴリー外の社会との関わりを極力避けるならば、それは精神的に引き籠もっていることと同じである。

 若者には社会をより良い方向へ変革する力が本来備わっているはずなのに、それを行使しないのはもったいない。


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