はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

上高地・飛騨高山と白川郷3日間の旅(6)

2008年08月16日 | 上高地・飛騨高山(2008年夏)
永平寺で心が平安に包まれたところで(笑)、私たちツアー一行を乗せた北陸バスは、北陸自動車道で一気に石川県は金沢市へ。いよいよ最後の訪問地、日本三名園*のひとつ、兼六園に到着です。兼六園は元々加賀藩主前田家の、金沢城外郭に設けられた庭で、江戸時代の代表的な林泉回遊式庭園の特徴を今に伝える名園です。ここには過去に何度か訪れたことがありますが、真夏の訪問は初めて。

日本三名園*:後楽園(岡山)、偕楽園(水戸)、兼六園(金沢)

時刻は13時近く。炎天下に、現地ガイドさんの案内で約30分のハイライトツアー。日傘で強い日差しを遮ってはいるものの、炎熱地獄のような熱気が地面から迫って来ました。定番のことじ灯籠の解説に始まり、唐崎松霞ケ池明治記念之標根上松梅林栄螺山(さざえやま)、自然の水圧を利用した噴水と巡るうちに、次第に頭がクラクラして来て「もう限界だ!」と思ったところで、昼食場所の寄観亭へ移動となりました。

唐崎松(カラサキノマツ)

その枝振りが優美な唐崎松は、13代藩主・斉泰(なりやす)公が、琵琶湖畔の唐崎からわざわざ種子を取り寄せて実生から育てたと言う黒松です。11月1日に、この松から始まる北陸発祥の造園技術である雪吊り作業は、北陸に冬の訪れを告げる風物詩になっています。斉泰公はこの他に、霞ケ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭(レンチテイ)との調和を図るなど、作庭に熱心な主君だったようです(因みに雪吊りの松は、冬季に都内でも浜離宮などで見ることができます)

ガイドさんの話で特に興味深かったのは、廃藩置県後、一般に無料開放された兼六園では園内の草木の盗難や損壊の被害が相次ぎ、その対策として入園料を徴収することにしたところ、被害が激減、かつ、入園料収入は庭園の維持と一層の充実に役立っていると言う話でした。一般への無料開放が必ずしも良い結果をもたらさなかった一方で、入園の有料化(現在大人300円)が「不心得者を遠ざけた」と言うのは皮肉なものですね。人間の品性について考えさせられる話です。因みに兼六園の年間維持費は雪吊り費用を含め、現在約3億5千万円だそうです。

【兼六園命名の由来】

5代藩主前田綱紀公が造園した当初(1676)は蓮池庭(レンチテイ)と呼ばれていたが、大火による焼失、歴代藩主による復興、拡張を経て、12代藩主の斉広(なりなが)公が、奥州白河藩主・白河楽翁に庭園の命名を依頼し、楽翁は中国・宋の時代の詩人・李格非の書いた洛陽名園記の文中から採って、名園の六勝宏大(広い)幽邃(景色が物静かで奥深い)人力(手入れが行き届いている)蒼古(古色を帯びて、さびた趣のあること)水泉(池や泉を有すること)眺望(眺望に優れていること)~を兼備すると言う意味で「兼六園」と命名した。(参考:リーフレット)


昼食は寄観亭の和会席

すっかり疲れてしまった私たちは、昼食を終えた後も出発時間ギリギリまで、冷房の効いた広間でゆったりと寛いで過ごしました。

金沢と言えば、今から20年前に、結婚間もない夫と二人で真冬の金沢を訪れた時のエピソードが忘れられません。夫と金沢城近くを歩きながら「金沢に知り合いっていたっけなあ…」と言う話になり、高校の同級生のN君が金沢大の博士課程に在籍していることをふと思い出した私の目の前に、そのN君が突然現れたのです。彼が大学から帰る途中の、思いがけない再会でした。お互いとても驚いたことが、昨日のことのように思い出されます。N君は今頃どうしているんだろう?

その後、私たちツアー一行は、金沢駅から15時過ぎ発の特急で越後湯沢まで行き、そこから上越新幹線に乗り換え、帰路につきました。上高地以外の地では猛暑に悩まされた旅でしたが、それなりに充実した旅だったように思います。(終)

 稜線を背景とした田園風景は日本の原風景…?
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 上高地・飛騨高山と白川郷3... | トップ | 人に注意するのは、私も本当... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。