はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『親』

2015年09月08日 | はなこ的考察―良いこと探し
 最近、「親」と言う言葉が常に頭から離れない。

 こんなに不完全な人間ながらも自分は一端の「親」であるし、
 中学生が被害者となった夏休み期間中の痛ましい事件でも、
 世間では「親」のことが取り沙汰されたし、
 つい最近見たテレビ番組『開運!なんでも鑑定団』でも、
 今は亡き不肖の父「親」に、
 遺品を巡って未だに振り回される女性の姿を
 目の当たりにしたせいだろうか?

件の女性、小学生の時に新聞配達で得たわずかばかりの収入も、父親の借金の返済に充てられた言う。今回、「これは価値がある」との生前の父の言葉を信じて形見の陶器を出品したものの、結局、鑑定結果は二束三文で、最後の最後まで不肖の父に振り回された形だ。鑑定結果を知った時の、笑うに笑えない彼女の切ない表情が印象的だった。

 「親」とは一体、何なのだろう?
 「親」とは、子どもにとって、どんな存在なのだろう?
 
 「親」になるのに「資格」試験があるわけでもない。
 立派な人が(選ばれて)「親」になるわけでもない。
 「親」になったからと言って、
 皆が皆、即「親」としての自覚を持てるわけでもない。
 かと言って、経験を積めば、誰でも立派な「親」になれる保証もない。
 しかも、「親」だからと言って、
 誰もが無条件に我が子に愛情を注げるわけでもない。

 この世の「親」と言う立場にある人々のどれだけが、
 「親」としての「役割」「務め」を理解しているのだろう?
 「親」としての自分に悩んでいるのだろう?
 「親」としての自分に「自信」や「誇り」を持っているのだろう? 
 「親」としての「喜び」を感じているのだろう?
 「親」として満たされているのだろう?
 
 おそらく、少なくとも子どもの立場から見て、この世に完璧な親(←注・親として完璧、とは言っていない)など存在しないのだろう。自分を産み、育ててくれた親は親として、また、ひとりの人間としても、何かしら欠点を抱えているものだと思う。

 その親との生まれた直後から始まる関わりが、否応なく人としての基本を形作る。その性格や価値観や他者との関わり方(他者との距離の置き方)、そして学習能力(机上の学問だけでなく生活全般における新たな事柄を、積極的に学ぼうとする意欲と習得する能力)を育てる。

 だから親自身に人としての能力が十分に備わっていないと、その親に育てられた子どもは、幼児期はともかく他者との関わりが一気に増える就学期に入ると、さまざまな面で苦労することになる。人並みの基本的な能力が身についていないからだ。

 そうした頼りない親のもとに生まれた子どもには、たったひとりでもいいから親以外の誰か大人(或いは年長の子ども。年長の兄姉に助けられた子どもも古今東西に多くいる)が、子どもの良き相談相手として身近にいて欲しいものだ。

 幸いなことに、神の配慮なのか、生存本能とも言うべきものか、子どもには生まれながらに備わった"自ら育つ能力"もあって、成長するに伴い、自らの欠損部分を自ら学習して補うことも出来るのだ。さらに不徳の親を反面教師に、自律的で思慮深い人間に育つ子どももいる。

 おそらく、そうした子どもには、"自ら育つ能力"にスィッチを入れてくれる、その子どもの為に親身になってくれる誰かが身近にいるのではないだろうか?今、こうしている間にも、世界のどこかで、親以外の誰かの愛情が、助けの必要な子どもにスィッチを入れてくれているのかもしれない。

 今、巷には「毒親」なる言葉があり、親の呪縛に大人になってもなお苦しむ人が手記も出版している。特に、ある分野の成功者として世間に知られた人物がそんな本を出しているのだから、弥が上にも注目を集める。

 しかし、その前提には「親はかくあるべき」と言う、親を徒に理想化した「親神話」が存在しているのではないか?所詮、親とて、ひとりの人間である。完璧であるはずがない。何かしら欠点を抱えて、自分のふがいなさに生真面目に苦悩しながら、或いは辟易しながらもどうすることもできずに、生きている人間に過ぎない。

 思うに、大人になるということは、親から自立するということは、そうした親を絶対視していた子ども時代から、不完全なひとりの人間として相対化して見られるようになると言うことではないだろうか?

 自分が親になって初めて自分の親の苦労を知ると言うのも、つまりはそういうことなのだと思う。けっして完璧とは言えない自分が曲がりなりにも人の親になり、今、子育てに四苦八苦している。その現状から、自分の親もかつてはそうだったのかもしれないと理解して、親の愛情に感謝する。親に対する思いは違っても、懸命に子育てした親のもとで育った人もまた、非力なひとりの人間として親を見ている。

 冒頭に登場した「何でも鑑定団」出演の女性にしても、最後の最後までどうしようもない父親だったのかもしれないが、その父親のもとで育った彼女が、今や大勢の人前に堂々と出られるような大人になっている(私は人を見る時に、生まれながらの造作より、生き様が映し出された人相を見る。彼女は穏やかな人相をしていて、好印象だった)。ひとつでも何かやましいことがあれば、こうした公の場には出られないはずだ。これは、ダメ親を克服した子どものひとつの姿である。彼女の今の在り方こそ、かつての親への反旗である。実は、世の中には、そんな人が大勢いる。

 自分の現在のふがいなさを、親のせいにしてはいけないのである。いい大人になってまで親への恨みつらみを心に抱えていては、いつまでも親から自立したとは言えないのである。それは自ら進んで親の呪縛に囚われていると言って良いのかもしれない。


 親は親で、親の最大の仕事は子どもを自立させることと弁えて、成人したら心を鬼にして突き放すぐらいの気構えがないと、子どもはいつまで経っても精神的にも経済的にも自立できないし、いい大人が罪を犯した時でさえ親の育て方が悪い、という世間一般の見方も変わらないだろう。
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