はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

どんな生まれかより、今をどう生きているか

2014年11月24日 | 日々のよしなしごと
 先日、友人二人との恒例のランチ会を開いた。場所はもう定番となった横浜のイタリアン・レストランだ。二人とは当初、同じ学校に通う息子達を通じて知り合い、長い歳月を経て、ママ友から子供抜きの友人関係へと至った仲だ。

 彼女達とはかれこれ10年以上の付き合いである。途中でひとりが病気で亡くなり、4人席のテーブルに通されると、いつも亡くなった彼女のことを思い出す。とても素敵な女性だった。上品で、いつも笑顔を絶やさず、愛に溢れた女性だった。私は彼女の言葉に何度助けられたことか。そんな彼女が亡くなったことが、5年経った今も、正直、信じられないでいる。

 残った3人は、半年に1度の割合で会っている。正確には、比較的近所に住むひとりとは、たまに一緒に映画を見に行ったりする仲だ。その友人は40代後半で、社会人の息子を持っているとは思えないほどの美貌の持ち主である。

 ただ、10年以上の付き合いともなれば、そういう相手の容貌など超越してしまって、その内面に惹かれて関係が続いているものだ。だから、普段接していて、彼女が人目を引くような美人であることを、私はすっかり忘れてしまっている。

 しかし、もうひとりの友人はそうでもないらしい。ランチ会で会う度に、彼女のいつまでも衰えない美貌を褒め称える。私から見れば、その友人も顔全体が小作りで、可愛らしい美人である。近々結婚する娘を筆頭に、3人の子供がいる母親とは思えない可憐さだ。そんなに人を羨ましがる必要もないだろうに。

 10年以上も付き合っていて、相手の容貌云々には、今さら感がある。私の中では、長く続く友人関係において、そういった要素はあまり意味をなさない。彼女の堅実さや聡明さと言った内面にこそ魅力を感じている。「いつ見てもきれいね」と言われている当の本人は、幼い頃から言われ続けて来て慣れたものなのか、特に照れるでもなく、戸惑うでもなく、淡々として、その話題はサラっと聞き流している。

 人それぞれなんだろうけれど、友人関係で殊更"優劣"に関わる話題を持ち出すことには違和感を覚える。そんなこと、もう、どうだっていいじゃん、私達の間では、と言う感じである。

 それよりも、今、「何をしているか」「何に興味を持っているか」の方に、私は関心がある。逆に言うと、今の自分について語れるものが何もないのは、ちょっと恥ずかしい。仕事でも、子育てでも、介護でも、自分磨きでも何でもいい。自分が日々懸命に取り組んでいること、関心を寄せていることが、自分をひとりの人間として育てて行くのだと思う。

 過去に拘ってばかり、(人によっては)過去の栄光にすがってばかりで、そこから一歩も前に進めないこと、徒に年を重ねただけで精神的な成長がないこと、確固たる自分なりの考えを持ち得ていないのは、恥ずかしいことだと思っている。

 年齢的にもそろそろ、"年を重ねて、経験を重ねて、内面的に成熟すること"に価値を見出したいものだ。 
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