はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

モンスターを作っているのは私達かもしれない…

2014年01月01日 | はなこのMEMO


シャーリーズ・セロンが所謂汚キャラを体当たりで演じ、米アカデミー賞主演女優賞を獲得した作品が『モンスター』。

主人公の女性は、その醜い容姿にコンプレックスを持ち、不幸な生い立ちも相俟って娼婦として生きている。

さらに同性愛者でもあったことから、保守的な社会からの疎外感を感じ、孤独感を深めて行く。

彼女の転落の軌跡は、まさに絶望から自暴自棄になった人間の生き様を描いて、彼女の犯した罪はともかく、見ていて痛々しく切なかった。 


ここ最近、連日、秋田の児童殺害事件の報道が続いている。

例によって、容疑者の過去を洗い出しているようですが、そこでふと気になったこと。

マスコミがあえて、あるイメージに視聴者を誘導しようとしている可能性は認めつつも、容疑者に対するかつての同級生達のコメント(言葉)に、冷たさを感じてしまうのは私だけでしょうか?

彼女の転落の人生をせせら嗤っているようにも見える。とんでもない事件を引き起こした彼女に対する嫌悪感がそうさせるのか?そんな彼女同級生であったことさえ、その記憶から消去したいからか?

それだけではないような気もする。「いてもいなくてもわからない存在」って何だろう?かつて別の事件の容疑者が自らを「透明な自分」と呼んでいたことを思い出す。

集団からの疎外感。孤立感。それから逃避すべく新天地を求めてもなお、自分を取り巻く状況は変わらない。

集団から受け入れられることを経験していないから、どうしたら周囲に溶け込めるのかすらわからない。人との距離感の加減がわからず、なかなか心を開けずに変人扱いされたり、逆に近づき過ぎて煙たがられたり…そうした弱点につけ込まれて、心ない人物に心身を傷つけられる可能性だって否定できない。

結局新天地でも良好な人間関係を築けない、その挫折感の深さは計り知れない。自分の中で屈託は堂々巡りし、次第に他者への思慕、期待感は、嫌悪や絶望に変わって行く。だからと言って、容疑者が犯した罪はもちろん許されるものではない…

せめてひとりでも、自分の心の内を遠慮無くさらけ出せる友人が彼女の傍らにいたなら、「なぜ自分だけが不幸なのか」と言った思いに強く囚われることもなかったのではないか?

私達が作りだしたかもしれない「モンスター」によって、罪のない子の命が奪われてしまったことが残念でならない。

ある人(の外見や内面)にちょっとした差異を見つけて、それを嘲笑したり、そのことでその人を遠ざけたりしていないか?自分の内にあるかもしれない冷酷な部分を、改めて確認したい気持ちです。

(了)

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