はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

「古臭い」と言われても、言いたいこと

2010年02月24日 | 日々のよしなしごと
時代や土地柄もあるのだろうけれど、私は年長者を敬うよう厳しく躾けられた。年長者に対する言葉遣いや態度に気をつけ、その身体を労る気遣いをするのは、年少者として当然だと。

それでも人並みに反抗期はあったから、中学の頃、年長者に対してふざけた態度を取ったこともあった。その時は両親はもちろんのこと、当事者や親戚の伯父叔母から、こっぴどく叱られた。反抗期だろうが何だろうが、「年長者を敬う」と言う共同体のルールと言うか、社会通念を破れば、年長者から厳しい叱責を受けるのは当然と言う空気だった。

年長者を敬う、と言うのは、自分が突如この世の中に出現したのではなく、遥か昔から連綿と命が繋がって来た結果なのだと言うこと、ひいては現世においても誰との関わりもなく、誰からの世話にもならず生きていることはあり得ないことを意味するのだと思う。

もうニュースとしては賞味期限切れだろうけれど、私が国母選手の会見の態度に不快感を覚えたのは、根底にその思いがあるからだ。選手団ユニフォームを自分流に着崩したことに端を発した騒動だけれど、それ自体は今振り返れば、殊更荒立てる内容のものではなかった。結局、その後の彼の対応の仕方に多くの人はカチンと来たのだと思う。成人男性らしい大人の対応をしていれば、あそこまで騒がれなかっただろう。

私が彼の態度に不快感を覚えたのは、彼がオリンピックに出場するに当たり、末端の人も加えて、一体どれだけの人々が尽力したかの配慮が見られなかったからだ。一抹でもそうした人々に対して感謝の思いがあれば、あのような不遜な態度は取れなかったはずだ。たとえ、マスコミがしつこく挑発して来ても、癇癪を堪えて、大人の対応ができたはずだ。

普段、美術館のボランティアとして小中高生と関わっている中でも、生徒の態度に腹が立つことがある。特にこちらは無給のボランティアだからと言って手抜きをしているつもりはないので、生徒が作品を一緒に鑑賞中に、あまりにもふざけた態度を取ると、思わず叱りたい衝動にかられる。羞恥心で、こちらからの問いかけに答えられないのは別に構わない。ここで言うふざけた態度とは、鑑賞マナーを入室前に確認したにも関わらず、こちらの出方を窺うが如く繰り返し破ること、きちんと作品に向き合わず、私や他の生徒の発言の揚げ足とりをしたり、ふざけた発言を繰り返すこと等して鑑賞の邪魔をすることである(特に反抗期真っ直中の中学生にまま見られる)。そうした子ども達を惹きつけられない私の力量不足もあるのかもしれないが、こうした事態に遭遇すると、徒労感に打ちのめされる。

もし、私の子どもが同様のことをしたら、私は我が子を引っぱたいているだろう。人としての不作法や、貴重な機会を台無しにしていることに腹を立てて(他の人の邪魔をしているという意味では、授業中の私語と同じ)。そもそも教育上良かれと思って鑑賞プログラムを企画してくださった先生、受け入れて下さった美術館(←親の立場で発言しています)に対して失礼である。こうした機会を設ける為に、さまざまな人々が時間を割いて、知恵を絞って準備に当たっている。そのことへの感謝を忘れてはいけない。これはテストの点数を10点や20点上げること以上に大切なことだと思う。

人との出会いも、経験も一期一会。その機を逃さず、十二分に生かすことが大事だと思う。何事もできるだけ興味を持って(面白がって)取り組むよう心がけないと自分の血肉にはなり得ず、その積み重ねは後々、大きな差となって自分に返って来る。そのことを教えてあげられるのは、やはり何と言っても親や身近にいる大人なんだと思う。自分がこれから経験することのひとつひとつが誰かの助けなしには実現しないこと、そのことへの感謝の思いを持って、何事にも真剣に取り組むことの大切さを、特に親は幼い頃から子どもに粘り強く言い聞かせることが大事だと思う。

実は、それを地域全体で教え諭す方便のひとつが「年長者を敬う」だったのではないかと、今にして思うのだ。これは文化や価値観の違いと言ったものでは片付けられない、人間が人間として成長する為の普遍的な作法なのではないか?ひとりよがりな「自己中」では、いつまで経っても「身体だけ大きな”子ども”」でしかない。
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