はなこのアンテナ@無知の知

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光市母子殺人事件遺族、本村洋氏の手記を読む

2008年05月18日 | はなこのMEMO


読み手は手記を通して、本村氏の苦悶と苦闘の9年間を追体験する…


 私は戸締まりにはかなり気をつけている方だと思う。日中一人の時は鍵だけでなくチェーンも掛けている。インターホンが鳴っても、モニターでまず無言で確認し、少しでも不審な点があれば居留守を使う。それでも最近まで、夫や息子の「帰るコール」があれば、彼らが自宅に到着するであろう時間を見計らって、ドアの鍵を外していた。

 しかし、ある映画を見てから、それも止めた。その映画では、或る男がズボンの後ろポケットにハンマーを忍ばせ、昼下がり時に住宅街を歩きながら、手当たり次第に人家の門扉や玄関ドアの施錠を確認するのだ。そして、たまたま子供の帰宅時間で門扉にもドアにも施錠していなかった家に侵入し、そこの一家を惨殺するのである。このシーンを見てから、片時も施錠せずにはいられなくなった。

 私が用心深いのにはもうひとつ理由がある。新婚当時住んでいた横浜で怖い経験をしたからだ。いつものように朝、出勤する夫を送り出して1時間近く経った頃、インターホンが鳴った。当時住んでいたのは木造2階建てアパートの1階部分。ドアは薄く、いかにも頼りない設えで、ドアチェーンも付いていない。もちろん、インターホンにモニターなんてついていない。

 8時になるかならないかの時間に、宅急便にしては早いなと思い、無言でドアの覗き穴から外を覗いた。見知らぬ作業着姿の男性が立っていた。「どなたですか?」と聞くと、その人はさも荷物のある方向に視線を落とすかのように、右手下方を見ながら「宅急便です」と答えた。

 その時まだ寝起きの顔にパジャマ姿で出るのが億劫だった私が「すみません。今ちょっと出られないので、後でもう一度来てはいただけませんか?」と応じたところ、私のワガママな申し出にも関わらず、その人はあっさり「分かりました。後で伺います」と言って帰っていった。

 しかし、その人が再び我が家を訪ねて来ることはなかった。翌々日、「宅急便強盗」なる、宅配業者を装って強盗を働く犯人が、横浜で逮捕されたと言う記事が新聞社会面に載っていた。件の男性がその犯人だったかは知る由もないが、もしそうだったらと想像すると、やはりゾッとした。今から20年前のことである。


 9年前の4月半ば、山口県光市の社宅にいた本村さんの妻A子さん(当時23歳)は、水道設備会社の社員を装った18歳の少年に絞殺されたのち陵辱された。生後11ヶ月の娘B子ちゃんも床に頭から叩きつけられた後に絞殺された。その7時間後、残業を終えて帰宅した本村氏は、想像だにしない妻の変わり果てた姿を、押し入れの中で発見するのである。

 その衝撃たるやどれほどのものであっただろう?しかも彼は動揺のあまり妻の亡骸を抱きしめることすらできず、警察に通報後は第一発見者として警察に連行された為、娘のB子ちゃんが押し入れの天袋で発見されたことを、のちに警察で知ることとなる。このことが後々彼を自責の念で苦しめることになったと言う。

 手記は400字詰め原稿用紙50枚に及ぶ。遺体発見から、4月の死刑判決に至るまでの被害者遺族としての9年間の苦悶と苦闘が、感情を極力抑制した筆致で綴られている。そこで明らかにされているのは、日本の司法制度における被害者及び遺族の権利保護の欠如と、裁判の前例主義、相場主義の欺瞞、そして少年法の矛盾である。更に加害者弁護の節度を問うている。

 私の母はいつも「都会は雑多な人間がいるから気をつけて」と常々注意を促すが、犯罪の発生場所は何も都会とは限らない。現に長閑な田園地帯でも陰惨な事件が度々起きている。つまり誰もが犯罪被害者、その遺族になり得るということだ。

 残念なことだが、9年前の本村氏もそうだった。その自らに降りかかった悲劇を乗り越えるべく、彼は他人には想像もつかない程の苦悶と思索を重ね、自身の辛い体験を粘り強く社会に訴えかけることで、個人的苦悩を社会的関心事へと昇華させた。そのプロセスを彼の手記を通して追体験することは、同時代に生きて、より良い社会を築く担い手であるべきひとりとして、必要なことではないかと思う。できるだけ多くの人に是非読んで貰いたい手記である。

 本村氏は手記の中で、妻A子さんと娘B子ちゃんとの思い出の記憶が薄れ行くことに一抹の寂しさを感じているようだが、人間にとって「忘れること」は、心に抱える苦しみや悲しみを癒す作用があるとも聞く。何とも切ない話だが、「忘れること」で人間は「過去」に区切りをつけて、前に進めると言うことなのかもしれない。

 手記の結びの言葉にもあったように、今回の判決を一区切りとして、彼には新たな人生を歩んで欲しい。彼が残りの人生を充実させることが、亡くなられたお二人への何よりの供養になると思うからだ。

【2012.02.20追記】

 被告の元少年、大月(旧姓福田)孝行(30)の死刑判決を受けての被害者遺族、本村氏の会見には、改めて氏のこの13年の長きに渡る苦悩が胸に迫って来た。

 「喜びよりも厳粛な気持ち」「今回の裁判に勝者はいない。事件が起きた時点で誰もが敗者」~彼の言葉を、私達は真摯に重く受け止めるべきだ。私達は誰もが被害者、もしくは加害者になり得る社会に生きているのだから。事件は一旦起きれば、被害者遺族や生前被害者に関わった多くの人々(そして加害者の周辺の人々)を長きに渡って苦しめる。その人生の一部を容赦なく奪う。

 そのような不幸な人々をこれ以上生み出さない為に、自分達が当事者にならない為に、私達はどうあるべきなのか?どのような社会を作り上げるべきなのか?、今一度真剣に考えなければならないのだと思う。

 事件発生時には20代だったはずの本村氏の頭髪には今や白髪も見え、歳月の流れを感じさせた。しかし、ようやく事件にもひとつの結論が出たことで、その表情からは険が取れ、本来の穏やかさを取り戻したかのようにも見えた。13年は本当に長かったと思う。
 



【蛇足】

 私はこの手記を読みたいが為に、初めて『WiLL』という雑誌を購入した。いささか辛辣な、『朝日』を中心とするメディアへの批判で知られる?元週刊文春編集長の花田紀凱氏が手がける雑誌らしい。他の記事もザッと読んだが、主義主張、見解の相違はともかく、おしなべて率直な物言いが小気味良かった。多角的に物事を眺める眼を養うのに、雑誌や書籍に関して「食わず嫌い」は禁物である。蛇足ながら、九段靖之介氏の筆になる「裁判員制度」についての裏話は興味深い内容だったし、元『朝日』の秋山登氏による映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」のレビューは、私が見て感じたことをすべて網羅していて、おかげでここにレビュー記事を書く気力が失せてしまった(苦笑)。

【ブログ内参考記事】
映画『ノーカントリー』レビュー
映画『接吻』レビュー
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