地方の経済は疲弊する一方で、産業も人口も都市部に集中する。政府は将来的な労働力不足を見越して、「女性の社会進出を促す」と言う大義名分を掲げ、女性の労働力を活用しようと必死だ。給与水準も頭打ち状態。かつてのような高度経済成長も望めない。共働きでなければ、子育て世代は、リタイヤ世代並みの生活水準も得られない(高度経済成長の波に乗れた世代は、年々給与も上がり、預金金利も高く、着実に資産を増やせたし、国の将来にも明るさを見出せた。誰もが真面目に地道に働けば、安定した生活が送れた。それが今はどうだろう?雇用さえ不安定である。リタイヤ後の年金受給さえ危うい)。
そして、子育て世代の女性が外で働くとなれば、日中、子供を預かる施設が必要である。
今朝のNHKのニュースによれば、安倍政権が推し進める女性の社会進出を後押しする形で、待機児童問題を解決すべく、官民一体で各地に保育園の設置が進められていると言うが、これに対して、近隣住民からの反対の声が少なくないと言う。
これも人口の一極集中で、住宅密集の都市部ならではの問題なのかもしれないが、静かな住環境を求める老人世帯と、保育園が発する騒音問題と送迎時の交通渋滞が、対立の原因のようである。
(そもそも保育園設置となると、ある程度の規模の土地が必要である。そんな土地が確保できる場所は限られているはずだ。都市部である程度の規模の土地となれば、邸宅や社宅や町工場などの跡地ぐらいだろう)
しかし普通に考えて、地域コミュニティは、居住者の世代バランスが取れている方が健全ではないのか?文句を言っている老人世帯は、近隣が同世代の老人ばかりで、地域の活性化が図れるとでも思っているのだろうか?自分達が支払う固定資産税だけで、街が潤い、いつまでも街の財政が安泰だと思っているのだろうか?近年増えている災害に、老人世帯だけで対処できるとでも思っているのだろうか?
閑静な街は、見方によっては、活力のない街である。子供の歓声が聞こえない街は、死んだに等しい。子供を大切にしない社会は、いつか滅びに至るだろう。
番組では、互いに顔が見えないからこその誤解もあると考え、例えば保育園側が運動会などの行事に近隣の老人を招き、児童との交流を図っているケースを紹介していた。
また、民間が運営する保育園では、近隣住民が厭う騒音問題に配慮して、屋上に子ども達の遊び場を設置して、近隣の理解を得たと言う。しかも、子供の声が集積しないよう、遊具の配置にも工夫したという気の遣いよう。今の都市部ではそこまでしないと、子供が長い時間を過ごす空間を確保できないのか?
たかだか保育園の設置に文句を言っている老人は、自分の孫だけでなく、街に住む子ども達すべてが、街の宝、社会の宝とは思えないのだろうか?街の未来、この国の未来を作って行くのは、間違いなく子供達である。
自分の今の生活さえ安寧であればと願う独善的な考えの老人は、人間としてただ徒に肉体の年齢を重ねただけで、精神の成熟とは程遠い存在に思えて仕方がない。年齢を重ねることや社会的に成功し財を成すことが、必ずしも精神の成熟をもたらすわけではないのが残念だ。
「敬老」と言う社会的コンセンサスは、(根本の儒教思想にしても)加齢による人間の成熟を前提として日本の社会に根付いていたと思うだけに、自分本意な老人が増えることで、次第に人々の中から失われていくのではないかと危惧している。私が老人になる頃には、「姥捨て山」が復活しているのかもしれない。
また、昨今の子供の失踪事件は学校帰りに多発していると言うが、日中は親世代の多くが外に働きに出て、地域には老人しか残っていないのなら、その老人が街路に繰り出して、学校帰りの児童生徒の見守り役を買って出ても良いのではないか?地域によっては、それを実践している所もある。(特に都市部は元々、田舎の濃密な人間関係が嫌で都会に出て来た人が多いせいか)現代人の互いに干渉を嫌う気風が、地域コミュニティを殺伐としたものにし、子供の命さえ地域で守れない事態を生んでいるのではないか?
関連記事:「『都市部に、子供の居場所はないのか?』のその後」
そして、子育て世代の女性が外で働くとなれば、日中、子供を預かる施設が必要である。
今朝のNHKのニュースによれば、安倍政権が推し進める女性の社会進出を後押しする形で、待機児童問題を解決すべく、官民一体で各地に保育園の設置が進められていると言うが、これに対して、近隣住民からの反対の声が少なくないと言う。
これも人口の一極集中で、住宅密集の都市部ならではの問題なのかもしれないが、静かな住環境を求める老人世帯と、保育園が発する騒音問題と送迎時の交通渋滞が、対立の原因のようである。
(そもそも保育園設置となると、ある程度の規模の土地が必要である。そんな土地が確保できる場所は限られているはずだ。都市部である程度の規模の土地となれば、邸宅や社宅や町工場などの跡地ぐらいだろう)
しかし普通に考えて、地域コミュニティは、居住者の世代バランスが取れている方が健全ではないのか?文句を言っている老人世帯は、近隣が同世代の老人ばかりで、地域の活性化が図れるとでも思っているのだろうか?自分達が支払う固定資産税だけで、街が潤い、いつまでも街の財政が安泰だと思っているのだろうか?近年増えている災害に、老人世帯だけで対処できるとでも思っているのだろうか?
閑静な街は、見方によっては、活力のない街である。子供の歓声が聞こえない街は、死んだに等しい。子供を大切にしない社会は、いつか滅びに至るだろう。
番組では、互いに顔が見えないからこその誤解もあると考え、例えば保育園側が運動会などの行事に近隣の老人を招き、児童との交流を図っているケースを紹介していた。
また、民間が運営する保育園では、近隣住民が厭う騒音問題に配慮して、屋上に子ども達の遊び場を設置して、近隣の理解を得たと言う。しかも、子供の声が集積しないよう、遊具の配置にも工夫したという気の遣いよう。今の都市部ではそこまでしないと、子供が長い時間を過ごす空間を確保できないのか?
たかだか保育園の設置に文句を言っている老人は、自分の孫だけでなく、街に住む子ども達すべてが、街の宝、社会の宝とは思えないのだろうか?街の未来、この国の未来を作って行くのは、間違いなく子供達である。
自分の今の生活さえ安寧であればと願う独善的な考えの老人は、人間としてただ徒に肉体の年齢を重ねただけで、精神の成熟とは程遠い存在に思えて仕方がない。年齢を重ねることや社会的に成功し財を成すことが、必ずしも精神の成熟をもたらすわけではないのが残念だ。
「敬老」と言う社会的コンセンサスは、(根本の儒教思想にしても)加齢による人間の成熟を前提として日本の社会に根付いていたと思うだけに、自分本意な老人が増えることで、次第に人々の中から失われていくのではないかと危惧している。私が老人になる頃には、「姥捨て山」が復活しているのかもしれない。
また、昨今の子供の失踪事件は学校帰りに多発していると言うが、日中は親世代の多くが外に働きに出て、地域には老人しか残っていないのなら、その老人が街路に繰り出して、学校帰りの児童生徒の見守り役を買って出ても良いのではないか?地域によっては、それを実践している所もある。(特に都市部は元々、田舎の濃密な人間関係が嫌で都会に出て来た人が多いせいか)現代人の互いに干渉を嫌う気風が、地域コミュニティを殺伐としたものにし、子供の命さえ地域で守れない事態を生んでいるのではないか?
