夫婦は『割れ鍋に綴じ蓋』。
自由恋愛が許されていなかった時代ならいざ知らず、現代は多くの夫婦が恋愛を経るか、たとえ見合い結婚であっても選択の自由は与えられた上で結婚に至ったはず。
つまり、相手にどんな不満があろうと、その相手を選んだのは他ならぬ自分なのだ。
相手への不満を周囲の人間に愚痴れば愚痴るほど、自らの選択眼のなさを周囲に喧伝することになる。「私(僕)って、この程度の相手しか探せなかった人間なのよ」と自らを貶めることになる。
とは言え、「若気の至り」と言う言葉もあるくらいだから、中には若さ故の人生経験の乏しさから、当然「人を見誤る」こともあるのかもしれない(そうしたミス<痛恨のミス?>であるにせよ、もちろん他の誰のせいでもなく、その「選択の結果」は自らが甘んじて受け留めるしかない。そして、そこから賢さを身につけて、また一からやり直せば良い。そうでなければ、人は長い人生を生きては行けない)。
基本的に夫婦は『割れ鍋に綴じ蓋』。自分のレベル相応の相手を互いに選んでいるものなんじゃないかな?相手は自分の姿を(外見だけでなく内面も)映し出す鏡であったりする。相手の欠点をあげつらうならば、同時に自分を省みることも必要だろう。夫婦関係において(と言うよりおそらく全ての人間関係において)、片方が一方的に悪いことなんてあり得ないと思う。互いの働きかけがあって、互いに影響しあって、今の関係性があるのだろうから。
だから片割れの悪口を軽々しく他人には言うもんじゃないと思う。少なくとも私には
…と、他人に語りかけているようで、その実、自分自身を戒めている。夫に対する不満が頭をもたげて来た時、「そういう自分はどうなんだ」と自問するようにしている。果たして自分は夫の前で「良妻」と胸を張れるのか?
我が子についても然り。自分が思うように我が子が育たないのではなくて、自分がそのように育てているだけ。「子は親の背中を見て育つ」とはよく言ったもので、正面で向き合って口にしている言葉(←どうしても理想を掲げた立派な言葉が並ぶ)だけでなく、親が自身では気づかない日頃の振る舞い(現実の親の姿)も見て、子どもは育って行くのだろう。賢明な親のもとで、愚息・愚娘はけっして育たないはずだ。
幼稚園の頃だったろうか?先生が何かにつけ「みんな仲良く」を口にしていた。それまでの「家庭」と言う小さな世界から、「社会」と言う大きな世界へ一歩踏み出した子どもにとって、まずは集団生活に慣れるようにとの配慮からの言葉だったのだろうか?
しかし、それから40年以上生きて来て実感したことは、「誰とでも仲良く」なんて無理だ。「みんな仲良く」なんて幻想だ。どうしてだか「ソリ」が合わない人はいるものだ。高校生や社会人になって間もない頃、ほぼ初対面の人に「あなたとは仲良くできない」と面と向かって言われたこともある。
人づてに私について何か悪い評判でも聞いていたのだろうか?私もそれなりに生きて来て学習しているから、「ソリが合わないなりの付き合い方があるだろう」と試みることもあるが、相手が心を開かなければどうにもならない。仲良くできないと言われても、同じ教室で学んだり、一緒に仕事をしなければならないのだ。私はいつも通りに振る舞うだけである。それで1年後に誤解が解けたこともある。
『類は友を呼ぶ』と言う言葉がある。自ずと似たもの同士が寄せ集まることを意味するようだ。ふとこの言葉が気になって、自分の周囲を見回すことがある。自分はどんな人間と付き合っているのだろうと。傍目には、私の所属するグループはどのように映っているのだろうと。
良くも悪くも所属するグループの顔ぶれが、自分自身の現在のレベル(程度)を決定づけるようなところがある。その意味でも「誰とでも仲良く」なんてできない。「付き合う人は慎重に選ぶ必要がある」と思う。
ただし、常に自分が主導権を握れるわけではなく、自分も「選ばれる」立場にある。結局自分の普段の振る舞いが、付き合う友人を決めると言うことなのだろう。だからこそ自分はひとりの人間としてどうありたいのか、常に省みる努力が必要のようだ。
自由恋愛が許されていなかった時代ならいざ知らず、現代は多くの夫婦が恋愛を経るか、たとえ見合い結婚であっても選択の自由は与えられた上で結婚に至ったはず。
つまり、相手にどんな不満があろうと、その相手を選んだのは他ならぬ自分なのだ。
相手への不満を周囲の人間に愚痴れば愚痴るほど、自らの選択眼のなさを周囲に喧伝することになる。「私(僕)って、この程度の相手しか探せなかった人間なのよ」と自らを貶めることになる。
とは言え、「若気の至り」と言う言葉もあるくらいだから、中には若さ故の人生経験の乏しさから、当然「人を見誤る」こともあるのかもしれない(そうしたミス<痛恨のミス?>であるにせよ、もちろん他の誰のせいでもなく、その「選択の結果」は自らが甘んじて受け留めるしかない。そして、そこから賢さを身につけて、また一からやり直せば良い。そうでなければ、人は長い人生を生きては行けない)。
基本的に夫婦は『割れ鍋に綴じ蓋』。自分のレベル相応の相手を互いに選んでいるものなんじゃないかな?相手は自分の姿を(外見だけでなく内面も)映し出す鏡であったりする。相手の欠点をあげつらうならば、同時に自分を省みることも必要だろう。夫婦関係において(と言うよりおそらく全ての人間関係において)、片方が一方的に悪いことなんてあり得ないと思う。互いの働きかけがあって、互いに影響しあって、今の関係性があるのだろうから。
だから片割れの悪口を軽々しく他人には言うもんじゃないと思う。少なくとも私には
…と、他人に語りかけているようで、その実、自分自身を戒めている。夫に対する不満が頭をもたげて来た時、「そういう自分はどうなんだ」と自問するようにしている。果たして自分は夫の前で「良妻」と胸を張れるのか?
我が子についても然り。自分が思うように我が子が育たないのではなくて、自分がそのように育てているだけ。「子は親の背中を見て育つ」とはよく言ったもので、正面で向き合って口にしている言葉(←どうしても理想を掲げた立派な言葉が並ぶ)だけでなく、親が自身では気づかない日頃の振る舞い(現実の親の姿)も見て、子どもは育って行くのだろう。賢明な親のもとで、愚息・愚娘はけっして育たないはずだ。
幼稚園の頃だったろうか?先生が何かにつけ「みんな仲良く」を口にしていた。それまでの「家庭」と言う小さな世界から、「社会」と言う大きな世界へ一歩踏み出した子どもにとって、まずは集団生活に慣れるようにとの配慮からの言葉だったのだろうか?
しかし、それから40年以上生きて来て実感したことは、「誰とでも仲良く」なんて無理だ。「みんな仲良く」なんて幻想だ。どうしてだか「ソリ」が合わない人はいるものだ。高校生や社会人になって間もない頃、ほぼ初対面の人に「あなたとは仲良くできない」と面と向かって言われたこともある。
人づてに私について何か悪い評判でも聞いていたのだろうか?私もそれなりに生きて来て学習しているから、「ソリが合わないなりの付き合い方があるだろう」と試みることもあるが、相手が心を開かなければどうにもならない。仲良くできないと言われても、同じ教室で学んだり、一緒に仕事をしなければならないのだ。私はいつも通りに振る舞うだけである。それで1年後に誤解が解けたこともある。
『類は友を呼ぶ』と言う言葉がある。自ずと似たもの同士が寄せ集まることを意味するようだ。ふとこの言葉が気になって、自分の周囲を見回すことがある。自分はどんな人間と付き合っているのだろうと。傍目には、私の所属するグループはどのように映っているのだろうと。
良くも悪くも所属するグループの顔ぶれが、自分自身の現在のレベル(程度)を決定づけるようなところがある。その意味でも「誰とでも仲良く」なんてできない。「付き合う人は慎重に選ぶ必要がある」と思う。
ただし、常に自分が主導権を握れるわけではなく、自分も「選ばれる」立場にある。結局自分の普段の振る舞いが、付き合う友人を決めると言うことなのだろう。だからこそ自分はひとりの人間としてどうありたいのか、常に省みる努力が必要のようだ。