以下は、小学校教師をしている友人と語りあったことです。
最近、少年少女による凶悪犯罪が起きるたびに、
その後のマスコミ取材で浮かび上がってくる犯人像は、
その起こした事件の残虐さ・冷酷さとはおよそかけ離れた、
ごく”普通”の、どこにでもいるような少年少女の姿である。
だからこそ、世間は衝撃を受ける。そのギャップに狼狽する。
何が、”普通”の子供を凶行に走らせたのかと。
そもそも”普通”とは何なのか?
それは”一般の規範から外れることがない”
”これと言って特色がない”がゆえに、
顧みられることなく、無視され続けることを意味する。
もし、ある子供に対して「あの子は普通の…」と言いかけたら、
それは、「その子に対して自分は無関心だ」と言っているのと
同じことだと自覚すべきなのかも。
例えば、彼らが日常の大半を過ごす
”学校”という小社会の状況を見てみたらいい。
学業成績優秀者はもちろん、
スポーツや芸術などの分野で特殊な才能を発揮する者は、
称えられ優遇される。
その対極にあるような素行不良者も、
仲間や教師に、別の意味で注目される。
しかし、その何れにも属さない大多数の生徒は、
”普通”の枠の中に括られ、その中に埋没するしかない。
自己を強烈に意識する思春期に、
自己の存在を主張する場がない。その手だてがない。
幼い頃に確かにあったはずの万能感は、
年を追うごとに目の前に立ちはだかる壁の厚さに跳ね返され、
いつの間にか無能感にすり替わる。
そんな中で否応なく大多数の”普通”の生徒達は、
15歳や18歳やそこらで、
”進路選択”という関門によって選別される。
そして思い知るのだ。”普通”の中にもまた
少数の”勝ち組”とその他大勢の”負け組”があるのだと。
今まで同じだと思っていた仲間との距離に、
自己の理想像と現実像とのギャップに、打ちのめされるのだ。
可もなく不可もない、”普通”であることに、
周りの大人は安心しては行けない。
”普通”の子供達の内にも屈託があり、
そのプライドは傷つきやすく、脆いのだ。
”普通”であるがゆえに顧みられないのは、
子供達にとって”無視されている”ことと同じであり、
その内に言いようのない孤独感を醸成させるのかもしれない。
世の大人達は、大多数の”普通”の子供達に
もっと心を砕くべきなのかもしれない。
彼らの、声にならない言葉に耳を傾け、
常に見守っているのだというサインを
送り続けることが大事なのかもしれない。
そしてひとりひとりが今、
生きているだけで尊いのだということ、
かけがえのない存在なのだということを、
日々しっかり伝えなければいけないのだと思う。
まずは我が子から…
最近、少年少女による凶悪犯罪が起きるたびに、
その後のマスコミ取材で浮かび上がってくる犯人像は、
その起こした事件の残虐さ・冷酷さとはおよそかけ離れた、
ごく”普通”の、どこにでもいるような少年少女の姿である。
だからこそ、世間は衝撃を受ける。そのギャップに狼狽する。
何が、”普通”の子供を凶行に走らせたのかと。
そもそも”普通”とは何なのか?
それは”一般の規範から外れることがない”
”これと言って特色がない”がゆえに、
顧みられることなく、無視され続けることを意味する。
もし、ある子供に対して「あの子は普通の…」と言いかけたら、
それは、「その子に対して自分は無関心だ」と言っているのと
同じことだと自覚すべきなのかも。
例えば、彼らが日常の大半を過ごす
”学校”という小社会の状況を見てみたらいい。
学業成績優秀者はもちろん、
スポーツや芸術などの分野で特殊な才能を発揮する者は、
称えられ優遇される。
その対極にあるような素行不良者も、
仲間や教師に、別の意味で注目される。
しかし、その何れにも属さない大多数の生徒は、
”普通”の枠の中に括られ、その中に埋没するしかない。
自己を強烈に意識する思春期に、
自己の存在を主張する場がない。その手だてがない。
幼い頃に確かにあったはずの万能感は、
年を追うごとに目の前に立ちはだかる壁の厚さに跳ね返され、
いつの間にか無能感にすり替わる。
そんな中で否応なく大多数の”普通”の生徒達は、
15歳や18歳やそこらで、
”進路選択”という関門によって選別される。
そして思い知るのだ。”普通”の中にもまた
少数の”勝ち組”とその他大勢の”負け組”があるのだと。
今まで同じだと思っていた仲間との距離に、
自己の理想像と現実像とのギャップに、打ちのめされるのだ。
可もなく不可もない、”普通”であることに、
周りの大人は安心しては行けない。
”普通”の子供達の内にも屈託があり、
そのプライドは傷つきやすく、脆いのだ。
”普通”であるがゆえに顧みられないのは、
子供達にとって”無視されている”ことと同じであり、
その内に言いようのない孤独感を醸成させるのかもしれない。
世の大人達は、大多数の”普通”の子供達に
もっと心を砕くべきなのかもしれない。
彼らの、声にならない言葉に耳を傾け、
常に見守っているのだというサインを
送り続けることが大事なのかもしれない。
そしてひとりひとりが今、
生きているだけで尊いのだということ、
かけがえのない存在なのだということを、
日々しっかり伝えなければいけないのだと思う。
まずは我が子から…