はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

自分が自分で在ること、あなたがあなたで在ること

2005年12月20日 | 家族のことつれづれ

今日は日差しが強い。そこで太陽そのものを撮ってみた。
空気は冷たいが、陽の当たる部分はポカポカ・・・・

晴れた日、自宅近くの街路を歩いていると、
空に輝く太陽の恵みに感慨を深くすることがある。
日暮れて夕闇が迫る頃、急速に冷え行く空気にも
太陽の日差しがもたらす恵みを実感する。
この太陽の日差しが強すぎても、逆に弱すぎても、
私達地上の生き物は、この生を得ることが
なかっただろうし、今こうして種の繁栄を見る
こともなかっただろう。

恒星としての太陽の大きさ、熱量、地球との
距離、引力、太陽系の生まれたタイミング等々、
様々な条件が整ってこその、私達にとっての
太陽の恵みなのだ。
こうした偶然の重なりに不思議を覚えて、
太古の人々が創造主の存在を思いついたのは、
当然の成り行きだったのかもしれない。
そもそも自分がこうしていることさえ、
不思議に思えてくる。宇宙の銀河系の太陽系の
地球の日本の<ここ>にいる自分。

人は、ふとした時に自分の生まれた意味を考える。
繰り返し、折々に考える。
家族にとっての、親戚・友人・知人にとっての、
自分が帰属する社会にとっての、人類にとっての、
ひいてはこの地上に生きる全ての生き物にとっての、
自分の存在意義とは何なのか、考える。
なぜ、自分は<ここ>にいるのか?
他の誰でもない自分として、在り続けるのか?

それは思春期に初めて深く意識することなのか?
自分自身を初めて親と切り離し、
一個の独立した存在として意識し始める時期に。
そして、学校生活を通じて運動能力や学力等の
物差しで客観的に自分を評価される機会が増え、
自分の有限性を自覚する時期に。
幼い頃は、自分が<そこ>にいることは
当たり前のこととして、それを前提に、
自分の存在の不思議に惑うことなく、生きていた。
殆ど誰もが自分という存在を肯定的に捉えていた。
自分はなりたいものになれる、自分には無限の
可能性があると信じていた、はずだ。

自分の存在は偶然の賜か?自分はなぜ<自分>
~顔形、体つき、性格、能力~なのか?
自分とよく似た、或いは、あたかも一部を共有する
ような存在の両親を観察する。自分はこの父の精子と
母の卵子とが出会い結合した賜か?
それにしても・・・・・・
その出会いとて、その精子と卵子が出会った
タイミング、ひいては父と母の出会い、
それぞれの祖父母の出会い・・・遡って行けば、
天文学的数字の低い確率での出会いのひとつなのだ。
そういう自分では到底計り知れない不可思議さに
絶対的存在、神や仏という存在の作為を感じたりする。


夕焼け空。あまりにもキレイだったので・・・・


昨日、学校から2学期の成績通知表が送付されて来た。
息子は自分の能力の限界を感じている。
「ダメだ。自分は勉強に向いていない」と。
2学期後半、端から見ても、息子は勉強に頑張っていた。
必死に取り組んでいた。その成果が期末テストで
一部の教科には現われていた。しかし成績表には、
それが必ずしも反映されてはいない。
成績表を手にする彼の背中を、
”落胆”が包んでいるように見えた。

息子よ、めげるな。
自分が自分で在ることを考えてごらん。
あなたの身に起こるひとつひとつの出来事には
何らかの意味がある。何らかの作為があるはずだ。
両親も、あなたがあなたで在ること、あなたが
息子として生まれ出でた意味を考えている。 
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