
年末ジャンボ宝くじ。よく見ると結構凝った意匠。
何か悪いこと、アクシデントに見舞われた時、
それがよほど重大事でないかぎり、
「いい厄払いになったわ」
と言って、気持ちを切り換えるようにしている。
子供の時、誰かがそう言っているのを聞いて、
真似するようになった。
「厄払い(厄落とし)」はまた、
予防的効果を期待して行うものでもある。
私達は夫婦共にたまたま仕事で開発途上国との
関わりを持った。
以来、その動静に関心を持ち、10年間を目標に
国際援助団体フォスター・プランに参加した。
月々5000円をFP協会に寄付する代わりに、
協会からは協会が援助活動を行っている開発途上国
の児童生徒をひとり紹介され、その子の名目上の
フォスター・ペアレント(里親)として
手紙の交換などの交流を行う、というものだ。
参加して10年が経過し、夫の会社の業績悪化で
収入が減ったのを機に、残念ながら退会したが、
最初にケニアの、次いでスリランカの男の子という、
ふたりの里親となった経験は、いろいろな意味で
勉強になった。何よりケニア、スリランカと遠く離れた
国々への関心が高まり、その地域が抱えている問題、
民間の国際協力事業の活動内容を知ることができた。
(知らないなら知らないで済むことなのかもしれないが、
同じ地球上に住む人間として、まったく無関心というのは
どうなのだろう。)
そしてこれはまた別の意味をも持っていた。
すでに子供に恵まれた私達夫婦にとっては、
子供の健康が守られていることへの感謝が転じて、
金銭を代償に、我が子の無病息災を願う、
「厄落とし」でもあったのだ。
地域コミュニティへの貢献という意味では、
キリスト教会への献金が想起される。
キリスト教会では、収入の10分の1を献金
しなさいと言われたことがある。もちろん
それはハッキリ規定されたものではなくて、
あくまでも目安であり、おそらくかつての
教会の在り方の名残りなのだろう。
その昔、特にキリスト教圏において教会は、
信者各人の心の支えになったと同時に、
地域の集会所のような役割を果たし、
コミュニティの結束に大きな意味を持つ存在
だったに違いない。
だから、教会の維持は地域にとって重要な問題で、
それ相応の経済的負担を信者は負わなければ
ならなかったのだと推察する。
私は宝くじなど滅多に買うことはないが、
たとえ買ったとしても、
「当たれば儲けもの」程度の期待で、
実は外れてもあまりガッカリはしない。
むしろ「いい厄払いになった」と思っている。
とかく宝くじは「楽して儲けよう」的な
匂いもあって、何か後ろめたさを感じがちだが、
実のところ、その必要はないのかもしれない。
最近テレビでも定期的にその収益金の使い道が
紹介されたり、時々福祉施設や福祉車両に
”宝くじ由来のものである”旨
明記されているのを見かける。
宝くじ裏面にも、宝くじを購入した都道府県の
公共事業や地方自治体が行う国際交流事業の
資金に充てられる、と明記されている。
ある意味、宝くじを買う行為は、
”間接的な寄付行為”と解釈しても
良いのではないか?
それぐらいの欲のなさが、
案外幸運を運んでくれるかもしれない。
蛇足ながら、何年か前に夫が珍しく
宝くじを買ったことがあった。
普段宝くじ購入はおろか、
ギャンブルを一切しない夫だ。
その彼が何を思ったか10枚だけ買った。
すると果たして結果は、4、5、6等当選で、
当選金額合計1万3千3百円也。
3千円が1万3千3百円に化けた?!
こういうのをビギナーズ・ラックと言うのだろう。
これに味をしめて、夫が次に買った宝くじは
見事ハズレだった(^_^)。