はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

今一度心に留めたい―「身の程を知る」「分を弁える」

2007年11月29日 | はなこ的考察―良いこと探し
 今に始まったことではないかもしれないが、「金(かね)」と「欲」が絡んだ事件(の報道)がなんと多いことだろう。「金」を巡るトラブルの果ての事件、「欲」に眼が眩んだ挙げ句のエリートの転落。元々「金」は人間が生活を営む為の道具であったはずが、今や「金」を中心に人間社会が動く事態になっている。人間が「金」の奴隷と化している。「欲」は人間の諸々の活動の原動力だが、それも度を超せば人間を堕落させる。

 言うまでもなく、人間が現代文明社会において生活を営む上で「金」は不可欠のものだ。ある程度なくては困るし、逆にあり過ぎて困るという話も聞いたことはない。大富豪は別として、本来大多数の一般庶民にとっては、その”程度”が問題なのだろう。本来「自分の身の程に合った持ち分」~日々の暮らしに事欠くことなく、自分のやりたいと思うことを”程々に”実現でき、かつ将来の不安を抱くこともない程度~が確保できれば十分なはずだ。

 にも関わらず少なからぬ人々がその確保にさえ四苦八苦しているのはなぜか?たとえ資産ゼロからのスタートでも、例えば人生計画の中で最も大きな支出である「住宅取得」を諦め、定職に就き真面目に働いてさえいれば、健全な家計の下に家庭を営み、子供にも人並みの教育を施すことは可能なはずだ。現に夫の両親はそうして3人の子供を育て上げた(因みに夫の父は、幼い頃に下級官吏だった父親に帯同して満州に赴き、戦争末期に命からがら日本へ引き揚げて来た日本人のひとりだ。その後の人生は並大抵の苦労ではなかったらしい。それこそ貧しい生活の中で爪に火を灯す思いで、3人の内2人の子どもを県外の国立大学に進学させたようだ)

 「金」を巡るトラブルで事件に巻き込まれる人々の多くが「借金」にまみれている。病気等、何らかの事情で失職し収入が絶たれたのならともかく、定職に就いていながら、多額の「借金」抱えている人がいる。その原因は「ギャンブル」や「異性の歓心を得る」為の散財であったり、はたまた「投機」に手を出した挙げ句の借金が殆どだ。さらにそれらとセットで「酒やドラッグ」で身を持ち崩す人も少なくない。

 その人の人生にそれらは果たして本当に必要なものだったのか?それなしに生活できなかったのはなぜなのか?仮に「心の空虚さ」を埋める為の手だてとしての「酒・ドラッグ」であったなら、なぜそれ以外のことに手だてを求めなかったのか?求められなかったのか?異性の心を繋ぎ止めるのになぜ「金」だけを頼みにしたのか?手元にある「金」で十分生活を営めるはずなのに、なぜ確実性の乏しい手段でさらに「金」を増やそうと思ったのか?

 自らを破滅へと導く可能性を持ったそれらを、無節操に自らの生活の中に取込んだ人々に共通して見られる特徴は、「地道さ」を軽んじ、「面倒な道筋」を避けて、「安易な手段」を用いて結果を求める「怠惰な精神性(=心の弱さ)」と、心の充足を与えてくれる「良好な人間関係の欠如=孤独」、そして「”分を弁える”謙虚さの欠落」ではないだろうか?その為に本来「生活を営む上での道具」に過ぎないはずの「金」に必要以上に執着し、振り回され、結果的に自滅してしまう。こんな人生、情けなくないかい?

 自分の人生の主体はあくまでも「自分」であって、自分以外の何ものにも支配されるべきではないはずなのに。「金」と「欲」に絡め取られない為には「金」にあまり執着しないこと(そうすると「金持ち」にもなれないだろうけど(笑))、あまり「欲」張りにならないこと―そうせざるを得ない状況に我が身を置かないことに尽きると思う。その意味で、一見、封建時代の遺物のように思える「身の程を知る」「分を弁える」という考え方は、その実、「自らの人間としての誇りを守る」為に、先人が編み出した貴重な「人生訓」なのではないか。自戒を込めて、今一度このことを心に留めたいと思う。

 結局、心の在り方の問題なのかなあ…

【追記(2008.12.15)】

どうも「身の丈」と「身の程」を取り違えていたようで(^^;)、タイトルを「身の丈」から「身の程」に訂正しました。
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