美術館でボランティアを始めてもう8年になる。飽き性の私が今まで続けて来られたのには、少なくとも二つの理由があると思う。
まず何と言っても、ボランティア活動を通して沢山の子供達と出会うことの楽しさ。
美術館で実施するスクール・ギャラリートーク(以下、SGT)は対話型トークと言われるもので、特に小学生の児童に対しては、私達ボラティアは作品についての解説は最小限に止めて、目の前にある作品を見て気づいたこと、感じたこと、考えたことを、子供達に自由に発言して貰うことを目指している。
そこでは児童の発言に対して、学校のテストのように正解・不正解は問わない。また、発言に至らないまでも、各々の児童の心の中で芽生えた思いや考えを尊重したいと思っている。つまり、これは知識を授けると言うより、感性を豊かに育てることに主眼を置いた鑑賞教育と言える。
まずは、美術館はほぼ初めてと言う児童に、本物の美術作品と出会う機会をとりもち、美術作品との出会いを楽しんで貰い、このSGTが美術作品、並びに美術館をより身近に感じるきっかけになればと思う。
さらに中学生ともなれば、より複雑な抽象思考が可能になり、知識欲も旺盛になるので、私達ボランティアも作品の時代背景や作家、創作技法に着目した解説を加えたり、ひとつひとつの作品に対してより深い考察を促す等して、その成長に合わせた鑑賞方法で対応している。その意味では、発達年齢に応じた鑑賞の在り方を目指しているとも言えるだろうか?
こうしたSGTでは(さらに年に2~3回実施される家族向けワークショップでも)、子供達の直向きさに感銘を受けることが少なくない。発想のユニークさに驚かされることもしばしばだ。私達大人の既存の枠組みで考えた予想や期待を軽々と超えた子供達の反応に、彼らが未来に向かって生きている存在であることを実感せずにはいられない。そして終わった後には、私が子供達に美術館との橋渡しのボランティアをしてあげていると言うより、私の方が逆に子供達から元気を貰っていることに気づくのだ。普段、子供と接する機会の少ない人は、特にその喜びが大きいのではないだろうか?
ボランティアを続けて来られた理由のもうひとつは、他では得難い、志を同じくする仲間との信頼関係だ。当初19人でスタートしたボランティアは2年前に2期生を迎え、現在は40人近くになった。仲間とはこれまでボランティア活動以外でも、勉強を兼ねて首都圏各地の展覧会を巡ったり、日帰りや一泊で遠方の展覧会にも足を運んだりと、行動を共にして来た。中には連れだって海外まで行った仲間もいる。身近に美術に関心を持つ友人が少ない私にとっては、貴重な鑑賞仲間とも言える。
大人になってから、利害関係やしがらみを抜きにした友人関係を築くのは難しい。特に女性は結婚後仕事を持っていないと、子供を媒介したママ友関係が身近な友人関係になりがちだと思う。しかし、それはあくまでも子供を通じた繋がりであり、子育てで助け合うことはあっても、趣味嗜好が必ずしも一致するわけではなく、そこに物足りなさを感じるのは否めない。子供がある程度成長して、子育ても一段落したら尚更である。
だからこそ、趣味や関心のベクトルが同じ人との関わりを求めたくなるのだろう。しかもボランティアは、持ち回りの町内会の役員や学校のPTA役員のような半ば強制的な役回りではない。参加するか否かはもっぱら本人の自主性に委ねられている点が魅力だと思う。ボランティアが集って共同作業をする中で多少の摩擦が生じても、金銭的報酬も絡んでいないせいか、ボランティアとして所期の目的を達することに徹すれば、関係が大きくこじれることも殆どない。
そもそも無報酬で誰かの為に働くことを厭わない人に、根っからの悪人はいないのではないか?(売名行為や箔付け等、何らかの個人的利益を意図して参加する人も中にはいるようだが、そのことがボランティア活動自体の評価を不当に下げて、活動を妨げるようなことがない限りOKだろう。個人的にその人を信頼できるか否かは別として)ボランティア活動は、志や価値観を同じくする、信頼できる友人を捜すには最も有効な手段だと言って良いと思う。
人の喜ぶ顔が見たい。困っている人を助けたい。誰かの為に役立ちたい。何かで、どこかで人と繋がっていたい。誰かと喜びを分かち合いたい。誰かの哀しみや苦痛を少しでも和らげたい。自分自身を高めたい。自分の能力を社会に役立てたい。仕事とは違う何かで自分を表現したい、生かしたい。子・親・祖母・祖父・姉・兄・妹・弟・先生・会長・社長・上司・部下等と言った立場を離れて、ただひとりの人間として何かをしたい。人生にやりがいを見いだしたい。そんなひとりひとりのさまざまな思いを、ひとつの形にするのもボランティアだと思う。
ボランティアとは他の人の為の奉仕活動のように見えて、その実、働いた以上のもの~恵みを自分自身が得ているものなのかもしれない。
まず何と言っても、ボランティア活動を通して沢山の子供達と出会うことの楽しさ。
美術館で実施するスクール・ギャラリートーク(以下、SGT)は対話型トークと言われるもので、特に小学生の児童に対しては、私達ボラティアは作品についての解説は最小限に止めて、目の前にある作品を見て気づいたこと、感じたこと、考えたことを、子供達に自由に発言して貰うことを目指している。
そこでは児童の発言に対して、学校のテストのように正解・不正解は問わない。また、発言に至らないまでも、各々の児童の心の中で芽生えた思いや考えを尊重したいと思っている。つまり、これは知識を授けると言うより、感性を豊かに育てることに主眼を置いた鑑賞教育と言える。
まずは、美術館はほぼ初めてと言う児童に、本物の美術作品と出会う機会をとりもち、美術作品との出会いを楽しんで貰い、このSGTが美術作品、並びに美術館をより身近に感じるきっかけになればと思う。
さらに中学生ともなれば、より複雑な抽象思考が可能になり、知識欲も旺盛になるので、私達ボランティアも作品の時代背景や作家、創作技法に着目した解説を加えたり、ひとつひとつの作品に対してより深い考察を促す等して、その成長に合わせた鑑賞方法で対応している。その意味では、発達年齢に応じた鑑賞の在り方を目指しているとも言えるだろうか?
こうしたSGTでは(さらに年に2~3回実施される家族向けワークショップでも)、子供達の直向きさに感銘を受けることが少なくない。発想のユニークさに驚かされることもしばしばだ。私達大人の既存の枠組みで考えた予想や期待を軽々と超えた子供達の反応に、彼らが未来に向かって生きている存在であることを実感せずにはいられない。そして終わった後には、私が子供達に美術館との橋渡しのボランティアをしてあげていると言うより、私の方が逆に子供達から元気を貰っていることに気づくのだ。普段、子供と接する機会の少ない人は、特にその喜びが大きいのではないだろうか?
ボランティアを続けて来られた理由のもうひとつは、他では得難い、志を同じくする仲間との信頼関係だ。当初19人でスタートしたボランティアは2年前に2期生を迎え、現在は40人近くになった。仲間とはこれまでボランティア活動以外でも、勉強を兼ねて首都圏各地の展覧会を巡ったり、日帰りや一泊で遠方の展覧会にも足を運んだりと、行動を共にして来た。中には連れだって海外まで行った仲間もいる。身近に美術に関心を持つ友人が少ない私にとっては、貴重な鑑賞仲間とも言える。
大人になってから、利害関係やしがらみを抜きにした友人関係を築くのは難しい。特に女性は結婚後仕事を持っていないと、子供を媒介したママ友関係が身近な友人関係になりがちだと思う。しかし、それはあくまでも子供を通じた繋がりであり、子育てで助け合うことはあっても、趣味嗜好が必ずしも一致するわけではなく、そこに物足りなさを感じるのは否めない。子供がある程度成長して、子育ても一段落したら尚更である。
だからこそ、趣味や関心のベクトルが同じ人との関わりを求めたくなるのだろう。しかもボランティアは、持ち回りの町内会の役員や学校のPTA役員のような半ば強制的な役回りではない。参加するか否かはもっぱら本人の自主性に委ねられている点が魅力だと思う。ボランティアが集って共同作業をする中で多少の摩擦が生じても、金銭的報酬も絡んでいないせいか、ボランティアとして所期の目的を達することに徹すれば、関係が大きくこじれることも殆どない。
そもそも無報酬で誰かの為に働くことを厭わない人に、根っからの悪人はいないのではないか?(売名行為や箔付け等、何らかの個人的利益を意図して参加する人も中にはいるようだが、そのことがボランティア活動自体の評価を不当に下げて、活動を妨げるようなことがない限りOKだろう。個人的にその人を信頼できるか否かは別として)ボランティア活動は、志や価値観を同じくする、信頼できる友人を捜すには最も有効な手段だと言って良いと思う。
人の喜ぶ顔が見たい。困っている人を助けたい。誰かの為に役立ちたい。何かで、どこかで人と繋がっていたい。誰かと喜びを分かち合いたい。誰かの哀しみや苦痛を少しでも和らげたい。自分自身を高めたい。自分の能力を社会に役立てたい。仕事とは違う何かで自分を表現したい、生かしたい。子・親・祖母・祖父・姉・兄・妹・弟・先生・会長・社長・上司・部下等と言った立場を離れて、ただひとりの人間として何かをしたい。人生にやりがいを見いだしたい。そんなひとりひとりのさまざまな思いを、ひとつの形にするのもボランティアだと思う。
ボランティアとは他の人の為の奉仕活動のように見えて、その実、働いた以上のもの~恵みを自分自身が得ているものなのかもしれない。