私は生まれも育ちも日本で、両親も日本人(母方は何百年も遡ると中国からの渡来人らしい)のはずなのに、普段生活していて、一般の日本人との感覚に、多少のズレを感じることがある。今日は、それについて少し書いてみようと思う。
(1)自分の子どもを他人の前で褒めてはいけないのか?
厳密に言うと、他人の前で我が子の悪い点ばかりをあげつらうのではなく、良い点は良い点として謙遜などせずに言う私は、もしかしたら、他の母親から反感を買っているのではないかと思う時がある。
日本では一般的に身内をけっして褒めない,寧ろ下げることが、謙遜の美徳とされているところがある。
先日もネット記事で、元新聞記者で現在は米国在住の女性が、我が子自慢に明け暮れる米国人母親に戸惑うと同時に、日本の感覚で我が子のことを貶(けな)すと、米国人から「子どもを虐待している」と誤解されそうになった、と言うレポートがあった。
私自身、先日、久しぶりに会った息子の同級生のお母さんに、息子さんの近況を伺うと、そのお母さんの口から「もう、全然勉強しなくて」「やたらと飲み会が多くて、朝帰りばかり」「朝寝坊で午前中の授業をサボりがち」と言う言葉が続いた。このお母さんは聡明な方で、PTAの役員をずっと続けられた方。息子さんも幼稚園の頃から知っているが、文武両道の真面目な子。お母さんの言葉には少し違和感を覚えた。
後日、偶然、当の息子さんと話す機会があった。何でも最近は大学に通いながら、公務員を目指して、試験対策の予備校に通い始めたらしい。大学の勉強に身が入らないと嘆いていたお母さんの話とはだいぶ違う。本人はどう見ても勉学と就活に意欲満々である。
よくよく考えてみたら、このお母さんは家事(以前、ご自宅に伺ったら部屋中ピカピカだった)も、仕事も、PTAの仕事も、同居の義母の介護もそつなくこなす完璧主義者だった。結局、あのネガティブ発言の連発は、聡明かつ常識人であるがゆえに、日本人らしい謙遜の美徳を発揮したということなのだろう。
それなのに、私は彼女に同調せず、謙遜などそっちのけで、息子がいかに充実した大学生活を送っているか(←実際、そうなのだ。大学の勉強も部活も全力投球で、多忙な毎日を送っている。ノンポリだった高校の頃とは顔付きも体つきもだいぶ変わって、驚くほど精悍になった)を話したのだ。日本人的感覚からすれば、私はお馬鹿だよね。常識人の件(くだん)のお母さんは「何なの?この人。我が子自慢なんかして」と、内心思ったに違いない
しかし、私は思うのだ。良い点は良いと褒めて何が悪いのだと。と言うのも、私はやはり「言葉の霊性」を信じていて、親の口から出る言葉通りに、子どもは育って行くのではないか、と言う"恐れ"を持っているのだ。「馬鹿だ。馬鹿だ。」と言い続けていたら、本当に馬鹿になってしまいそうで怖いのだ。たとえ本人の耳に直接入らなくても、親が吐き続ける言葉が、我が子を方向づけるような気がするのだ。だから、他人から「何?この我が子自慢」と疎まれても、我が子の良い点は褒めてあげたい。
もちろん、私だって息子のていたらくを愚痴ることはある。しかし、愚痴と謙遜は違うのではないか。必要以上に我が子を下げることはないと思う。謙遜もほどほどに(もちろん、自慢もほどほどに。おそらく、このさじ加減が難しい!)。寧ろ、世のお母さん方には、もっとお子さんの良い点をアピールして欲しいくらいだ。あまりにネガティブな意見だと、聞いているこちらまで心苦しくなるし、人によっては真に受けることだってあると思う。それで本人の預かり知らぬ所で、対外的評価が著しく下がっているなんて、気の毒ではないか?
実際、あの時、件のお母さんに同調して「うちの息子もそうなのよ」と言えば、その場は丸く収まったかもしれない。しかし、そうしたらそうしたで、自分の心に嘘をついているようで、息子の日々の努力を否定しているようで、後味が悪かっただろう。その一方で、私自身、保守的な一面もあるので、他人の言動が理解できないことがあるのも事実。
このことが何を意味するかと言えば、同じ日本人と言ってもけっして一枚岩ではないと言うこと、さまざまな考え方があると言うことなんだろう。自分と異なった意見、価値観を持っているからと言って、「あの人は変な人」「非常識な人」と決めつけるのは、できるだけ避けなければと思う。思えばこれまで、ネットの匿名性により吐露された、想像以上に多様な日本人の本音に触れて、そう考えるに至ったとも言えるだろうか?
(2)台詞は噛んではいけないのか?
テレビを見ていると、しばしば「今、噛みましたね」と言う表現を耳にする。アナウンサーが原稿読みで詰まって言い直したり、ドラマ収録のNGシーンで役者が台詞に詰まったり、トーク番組で出演者が言い間違えたりすると、第三者がすかさず、そう指摘する。
「台詞を噛む」とは元々演劇用語で、舞台上で役者が台詞を言い間違えることを指すのだそうだ。
しかし、これに関しても私は思うのだ。「噛んじゃいけないの?」
元々の意味である、演劇の流れを止めてしまう、役者の言い間違いを指すのは納得できるし、語りのプロであるアナウンサーが原稿を読み間違えた時に指摘するのも、まだ理解できる。しかし、フリートークの番組で、誰かが言葉に詰まったからと言って、周囲が「噛んだ!噛んだ!」と囃し立てるのには違和感を禁じ得ない。
予め決まった台詞を読み間違えたわけではないし、丁々発止のフリートークで思わず言葉が詰まるのは、ごく自然のことではないかと。そんな自然現象まで言い咎めるのは変ではないか。それとも何ですか?フリートークも実はフリートークではなくて、脚本でもあるのだろうか?
テレビの中の人々は、言葉は詰まってはいけない、台詞は噛んではいけない、と言う常識の枠の中で生きているのかもしれないが、外から見ると、なぜ、そんなことに、そこまで拘るのかが、正直なところ理解できない。別に言いじゃん!
(3)トイレで、(小)時の音を聞かれるのは、そんなに恥ずかしいことなのか?
友人の中に、夫が在宅中にはトイレで(大)ができないと言う女性がいる。もう10年以上前に聞いた話なので今はどうなのか判らないが、当時、その話を聞いて、彼女の奥ゆかしさに驚いた記憶がある。私は、夫は身内なんだし、(大)なんて自然現象だし、トイレと言う個室でドアを閉め切ってするのだから、夫が在宅中でも何ら問題はないのではと思うのだが、彼女は「音を聞かれたくないし、匂いが残るから嫌だ」と言った。考えてみると、その時点で結婚生活は15年を過ぎていたから、恥じらう彼女は可愛らしいとしか言いようがない。
私はそもそも(大)なんて自然現象だし(かつて「山口百恵は○○○しない」?と書いた人がいたなあ…そのフレーズを思い出す度に、変な話、あの美人女優の□□も△△も○○○するのだなあと思う)、一度我慢すると便秘になってしまいそうなので、夫が在宅でも構わずトイレに入る。
ただし、自宅の外となると、さすがに私も躊躇する。特に匂いが残るのが恥ずかしい。何でも、匂いは腸の老化度を測る尺度らしい。匂いがきつければきついほど、その人の腸は老化が進んでいるとのことだ。この匂いなるもの、意外に発生源の本人は、どの程度のものなのか見当がつかない。臭気の度合いを客観的に計測できる機械はあるらしいが、本人には「誰それの匂いに比べて」なんて比較のしようがない。それだけに他人の嗅覚が怖いのだ。
それでは、(小)はどうなのか?子どもも大人も、どんな美人、そして高貴なる方々も、(小)時には音が出る、はずだ。我が家のシャワートイレは20年近く前の製品のせいか、「音姫」のような遮音機能はついていない。おそらく最新型にはついているのだろうが、ついている場合、女性の皆さんは自宅でも、その機能を常に使っているのだろうか?
海外に行く人なら当然知っていることだが、海外のトイレにはシャワー機能はおろか、「音姫」のような遮音機能はついていない。それどころか、防犯の為にドアも一部分しかなく、足下が丸見えだったりする。遮音もへったくれもない環境だ。そんな海外の公共トイレでは、誰もが音など気にせずに用を足している。
つまり、(小)の音を気にするのは日本人独特の感性なのだろう。「音姫」がなかった頃は、(小)時と終わった後と、2度水を流すのが一般的だった。私は自然現象に何ら恥じることはないと思っていたし、何より水がもったいないと思っていたので、2度流しは滅多にしなかった。こんな私はおそらく少数派だろうし、私のことを恥じらいのない女だと思う同性も多いのかもしれない。
しかし、いつの頃から、日本女性は(小)時の音を気にしだし、それを聞かれないための水の2度流しが当たり前になったのか?水洗トイレが普及した当初から、この習慣は一般的だったのか?水洗トイレ以前はどうだったのか?
最近は電力不足を受けて節電が盛んに呼びかけられているので、公共のトイレのシャワートイレ機能の電源を落としている施設も少なくない。私が4月から聴講に通っていた、都内の某私立大学の女子トイレもそうだった。不思議だったのは、その女子トイレは音姫機能を備えたシャワートイレであるにも関わらず、壁に「水の2度流しは止めましょう」の貼り紙があったことである。節電後に音姫機能が使えなくなった為に、水の2度流しが増えたしまったからなのか?それにしては、貼り紙は古びていた。
また、過度の節電の流れに疑義を唱える雑誌記事では、ある企業で節電の為にシャワートイレの電源を落としたところ、水の2度流しが増え、水道料金が跳ね上がったのに経理課が悲鳴を上げ、結局シャワートイレの使用が復活した、とあった。シャワートイレを使用しないことによる節電効果(電気料金の節減)と水道料金を天秤に計ったら、水道料金の増加が思いの外著しく、節電効果どころではなかった、と言うのが何とも皮肉な話だ。
誰もが平等に逃れられない自然現象なのに、なぜ日本人女性はこうも(小)時の音を恥ずかしがるのか?女性はいちいちトイレの中で用を足しながら、他人の音を気にしているものなのか?私自身は気にしない質(タチ)なので、2度流しで"音"を消したがる一般の女性心理が、いまひとつ理解できないでいる。他の利用者に不快感を与える、他人に自分をネガティブに印象づける可能性と言う意味では、大便の匂いとは比較にならないほどささいなことのように思えるのだが…
(小)時の音を聞かれるのは、そんなに恥ずかしいことなの?別な言い方をすれば、他人の音はそんなに気になるものなのかな?
(1)自分の子どもを他人の前で褒めてはいけないのか?
厳密に言うと、他人の前で我が子の悪い点ばかりをあげつらうのではなく、良い点は良い点として謙遜などせずに言う私は、もしかしたら、他の母親から反感を買っているのではないかと思う時がある。
日本では一般的に身内をけっして褒めない,寧ろ下げることが、謙遜の美徳とされているところがある。
先日もネット記事で、元新聞記者で現在は米国在住の女性が、我が子自慢に明け暮れる米国人母親に戸惑うと同時に、日本の感覚で我が子のことを貶(けな)すと、米国人から「子どもを虐待している」と誤解されそうになった、と言うレポートがあった。
私自身、先日、久しぶりに会った息子の同級生のお母さんに、息子さんの近況を伺うと、そのお母さんの口から「もう、全然勉強しなくて」「やたらと飲み会が多くて、朝帰りばかり」「朝寝坊で午前中の授業をサボりがち」と言う言葉が続いた。このお母さんは聡明な方で、PTAの役員をずっと続けられた方。息子さんも幼稚園の頃から知っているが、文武両道の真面目な子。お母さんの言葉には少し違和感を覚えた。
後日、偶然、当の息子さんと話す機会があった。何でも最近は大学に通いながら、公務員を目指して、試験対策の予備校に通い始めたらしい。大学の勉強に身が入らないと嘆いていたお母さんの話とはだいぶ違う。本人はどう見ても勉学と就活に意欲満々である。
よくよく考えてみたら、このお母さんは家事(以前、ご自宅に伺ったら部屋中ピカピカだった)も、仕事も、PTAの仕事も、同居の義母の介護もそつなくこなす完璧主義者だった。結局、あのネガティブ発言の連発は、聡明かつ常識人であるがゆえに、日本人らしい謙遜の美徳を発揮したということなのだろう。
それなのに、私は彼女に同調せず、謙遜などそっちのけで、息子がいかに充実した大学生活を送っているか(←実際、そうなのだ。大学の勉強も部活も全力投球で、多忙な毎日を送っている。ノンポリだった高校の頃とは顔付きも体つきもだいぶ変わって、驚くほど精悍になった)を話したのだ。日本人的感覚からすれば、私はお馬鹿だよね。常識人の件(くだん)のお母さんは「何なの?この人。我が子自慢なんかして」と、内心思ったに違いない
しかし、私は思うのだ。良い点は良いと褒めて何が悪いのだと。と言うのも、私はやはり「言葉の霊性」を信じていて、親の口から出る言葉通りに、子どもは育って行くのではないか、と言う"恐れ"を持っているのだ。「馬鹿だ。馬鹿だ。」と言い続けていたら、本当に馬鹿になってしまいそうで怖いのだ。たとえ本人の耳に直接入らなくても、親が吐き続ける言葉が、我が子を方向づけるような気がするのだ。だから、他人から「何?この我が子自慢」と疎まれても、我が子の良い点は褒めてあげたい。
もちろん、私だって息子のていたらくを愚痴ることはある。しかし、愚痴と謙遜は違うのではないか。必要以上に我が子を下げることはないと思う。謙遜もほどほどに(もちろん、自慢もほどほどに。おそらく、このさじ加減が難しい!)。寧ろ、世のお母さん方には、もっとお子さんの良い点をアピールして欲しいくらいだ。あまりにネガティブな意見だと、聞いているこちらまで心苦しくなるし、人によっては真に受けることだってあると思う。それで本人の預かり知らぬ所で、対外的評価が著しく下がっているなんて、気の毒ではないか?
実際、あの時、件のお母さんに同調して「うちの息子もそうなのよ」と言えば、その場は丸く収まったかもしれない。しかし、そうしたらそうしたで、自分の心に嘘をついているようで、息子の日々の努力を否定しているようで、後味が悪かっただろう。その一方で、私自身、保守的な一面もあるので、他人の言動が理解できないことがあるのも事実。
このことが何を意味するかと言えば、同じ日本人と言ってもけっして一枚岩ではないと言うこと、さまざまな考え方があると言うことなんだろう。自分と異なった意見、価値観を持っているからと言って、「あの人は変な人」「非常識な人」と決めつけるのは、できるだけ避けなければと思う。思えばこれまで、ネットの匿名性により吐露された、想像以上に多様な日本人の本音に触れて、そう考えるに至ったとも言えるだろうか?
(2)台詞は噛んではいけないのか?
テレビを見ていると、しばしば「今、噛みましたね」と言う表現を耳にする。アナウンサーが原稿読みで詰まって言い直したり、ドラマ収録のNGシーンで役者が台詞に詰まったり、トーク番組で出演者が言い間違えたりすると、第三者がすかさず、そう指摘する。
「台詞を噛む」とは元々演劇用語で、舞台上で役者が台詞を言い間違えることを指すのだそうだ。
しかし、これに関しても私は思うのだ。「噛んじゃいけないの?」
元々の意味である、演劇の流れを止めてしまう、役者の言い間違いを指すのは納得できるし、語りのプロであるアナウンサーが原稿を読み間違えた時に指摘するのも、まだ理解できる。しかし、フリートークの番組で、誰かが言葉に詰まったからと言って、周囲が「噛んだ!噛んだ!」と囃し立てるのには違和感を禁じ得ない。
予め決まった台詞を読み間違えたわけではないし、丁々発止のフリートークで思わず言葉が詰まるのは、ごく自然のことではないかと。そんな自然現象まで言い咎めるのは変ではないか。それとも何ですか?フリートークも実はフリートークではなくて、脚本でもあるのだろうか?
テレビの中の人々は、言葉は詰まってはいけない、台詞は噛んではいけない、と言う常識の枠の中で生きているのかもしれないが、外から見ると、なぜ、そんなことに、そこまで拘るのかが、正直なところ理解できない。別に言いじゃん!
(3)トイレで、(小)時の音を聞かれるのは、そんなに恥ずかしいことなのか?
友人の中に、夫が在宅中にはトイレで(大)ができないと言う女性がいる。もう10年以上前に聞いた話なので今はどうなのか判らないが、当時、その話を聞いて、彼女の奥ゆかしさに驚いた記憶がある。私は、夫は身内なんだし、(大)なんて自然現象だし、トイレと言う個室でドアを閉め切ってするのだから、夫が在宅中でも何ら問題はないのではと思うのだが、彼女は「音を聞かれたくないし、匂いが残るから嫌だ」と言った。考えてみると、その時点で結婚生活は15年を過ぎていたから、恥じらう彼女は可愛らしいとしか言いようがない。
私はそもそも(大)なんて自然現象だし(かつて「山口百恵は○○○しない」?と書いた人がいたなあ…そのフレーズを思い出す度に、変な話、あの美人女優の□□も△△も○○○するのだなあと思う)、一度我慢すると便秘になってしまいそうなので、夫が在宅でも構わずトイレに入る。
ただし、自宅の外となると、さすがに私も躊躇する。特に匂いが残るのが恥ずかしい。何でも、匂いは腸の老化度を測る尺度らしい。匂いがきつければきついほど、その人の腸は老化が進んでいるとのことだ。この匂いなるもの、意外に発生源の本人は、どの程度のものなのか見当がつかない。臭気の度合いを客観的に計測できる機械はあるらしいが、本人には「誰それの匂いに比べて」なんて比較のしようがない。それだけに他人の嗅覚が怖いのだ。
それでは、(小)はどうなのか?子どもも大人も、どんな美人、そして高貴なる方々も、(小)時には音が出る、はずだ。我が家のシャワートイレは20年近く前の製品のせいか、「音姫」のような遮音機能はついていない。おそらく最新型にはついているのだろうが、ついている場合、女性の皆さんは自宅でも、その機能を常に使っているのだろうか?
海外に行く人なら当然知っていることだが、海外のトイレにはシャワー機能はおろか、「音姫」のような遮音機能はついていない。それどころか、防犯の為にドアも一部分しかなく、足下が丸見えだったりする。遮音もへったくれもない環境だ。そんな海外の公共トイレでは、誰もが音など気にせずに用を足している。
つまり、(小)の音を気にするのは日本人独特の感性なのだろう。「音姫」がなかった頃は、(小)時と終わった後と、2度水を流すのが一般的だった。私は自然現象に何ら恥じることはないと思っていたし、何より水がもったいないと思っていたので、2度流しは滅多にしなかった。こんな私はおそらく少数派だろうし、私のことを恥じらいのない女だと思う同性も多いのかもしれない。
しかし、いつの頃から、日本女性は(小)時の音を気にしだし、それを聞かれないための水の2度流しが当たり前になったのか?水洗トイレが普及した当初から、この習慣は一般的だったのか?水洗トイレ以前はどうだったのか?
最近は電力不足を受けて節電が盛んに呼びかけられているので、公共のトイレのシャワートイレ機能の電源を落としている施設も少なくない。私が4月から聴講に通っていた、都内の某私立大学の女子トイレもそうだった。不思議だったのは、その女子トイレは音姫機能を備えたシャワートイレであるにも関わらず、壁に「水の2度流しは止めましょう」の貼り紙があったことである。節電後に音姫機能が使えなくなった為に、水の2度流しが増えたしまったからなのか?それにしては、貼り紙は古びていた。
また、過度の節電の流れに疑義を唱える雑誌記事では、ある企業で節電の為にシャワートイレの電源を落としたところ、水の2度流しが増え、水道料金が跳ね上がったのに経理課が悲鳴を上げ、結局シャワートイレの使用が復活した、とあった。シャワートイレを使用しないことによる節電効果(電気料金の節減)と水道料金を天秤に計ったら、水道料金の増加が思いの外著しく、節電効果どころではなかった、と言うのが何とも皮肉な話だ。
誰もが平等に逃れられない自然現象なのに、なぜ日本人女性はこうも(小)時の音を恥ずかしがるのか?女性はいちいちトイレの中で用を足しながら、他人の音を気にしているものなのか?私自身は気にしない質(タチ)なので、2度流しで"音"を消したがる一般の女性心理が、いまひとつ理解できないでいる。他の利用者に不快感を与える、他人に自分をネガティブに印象づける可能性と言う意味では、大便の匂いとは比較にならないほどささいなことのように思えるのだが…
(小)時の音を聞かれるのは、そんなに恥ずかしいことなの?別な言い方をすれば、他人の音はそんなに気になるものなのかな?