後からじわじわと様々な感慨が湧いてくる映画。
米映画界のナイスガイ、マット・デイモンが鬼才ガス・ヴァン・サント監督と『グッドウィル・ハンティング』以来、タッグを組んだと言う本作。それだけで期待も大いに膨らむと言うのに、なぜか神奈川県では現時点で上映がなく、都内でも2館のみ。しかも2012年制作の映画が今頃公開という不可思議さ。
おそらく、本作で扱われているシェールガスを巡る話が、エネルギー資源開発では避けられない環境破壊と言うセンシティブな問題を含んでいるからなのだろう。
特に日本では、2011年の東日本大震災によって起きた福島の原発事故が未だ収束せず、国民の間でも日本各地に点在する原発の稼働に対して、万が一の事故を懸念する声が少なくない。福島の事故によって人々は、豊かな風土と温かなコミュニティが一瞬にして、恐ろしいほど呆気なく、破壊されてしまうことを知ってしまった。「開発」と「破壊」は表裏一体なのだ。
だからと言って、本作は声高に「反開発」を唱えているわけでもない。結局、シェールガスを巡る話は、"人間を描く"道具として使われているだけである。大企業に入社した地方出身の主人公が、出世を夢見てがむしゃらに働き続けて来て、いよいよ出世も射程圏内に入った時、思いがけず冷や水を浴びせかけられる。そこで我に返って自分の原点を見つめ直した時、彼は何を思ったのか?結局、どんな生き方を選択したのか?本作は、そういう人間ドラマを描いているのだと、私は思った。
そう映画を解釈すると、本作の上映を見送った映画館側の的外れな自主規制が、情けなく思えて来る。もちろん、映画の解釈は見る側の自由だ。映画館の方で余計な気を回して上映しないより、とにかく上映して、見る側の解釈に委ねたら良いのに。映画館側の体制(大勢?)に阿った(或いはこの内容ではマット・デイモン主演でもヒットが見込めないと判断したか?それで公開に至らず、映画ファンの元に届かなかった名作・佳作も少なくないのだろう。逆に『ホテル・ルワンダ』のようなケースもある)、このような傾向が、表現の自由を狭めて行くのではないかと、私は危惧している。
シェールガスの採掘権と引き換えに提示される金額は、貧しい農村地帯の人々にとっては目にしたことのない大金だ。その大金に目が眩む人間もいれば、「うまい話には必ず裏がある」と疑いの目を向ける老教師フランク(ハル・ホルブルック)のような人間もいる。
主人公のスティーブ(マット・デイモン)は自身もアイオワの農家出身で、地元にあった農耕具メーカーの撤退により、急速に寂れて行く地元を目の当たりにした経験を持つ。彼はグローバル社という巨大エネルギー開発企業の先兵として、パートナーのスー(フランシス・マクドーマンド)と共に採掘権の契約を進めて行くのだが、自身の苦い経験を踏まえて、このままでは先行きが暗い農村部の人々に良かれと思って採掘権契約を進めているフシがある。
「都市への富と人の一極集中」と「地方の衰退」はセットである。地方には、都市にはない豊かな自然が溢れているが、それだけでは経済的に糊口を凌ぐのに精一杯で、未来を展望する精神的余裕などなく、我が子にも十分な教育を授けられない厳しい現実がある。
そこに環境保護団体のメンバーを名乗るダスティン(ジョン・クランシスキー)の横やりが入る。果たして、スティーブとスーは、住民との契約をうまく取り付けることができるのか?グローバル社は思惑通りに、この経済的に貧しい農村地帯での採掘権ビジネスを成功させることができるのか…
最近の米国映画に顕著な傾向だが、実社会の現状を反映したものなのか、本作でも女性の方が逞しく、"男前"である。スティーブの仕事のパートナーであるスーは一児の母であり、愛して止まない息子を頼りない夫(もしかして離婚しているのか?)と共に自宅に残して、全米各地を飛び回っているキャリア・ウーマンである。常に冷静で、感情に流されることなく、目前の仕事をテキパキと片付けているのが、スティーブとの一連のやりとりからも見て取れる。昇進を目前にしたスティーブより、寧ろ彼女の方がやり手なのではと思わせる仕事ぶりなのだ。彼女の言動の端々から、一家の家計の支え手としての覚悟と強さが感じられる。それに引き換えスティーブ、お前は…以下省略。
しかし、どちらの生き方にも理があり、一概にどちらが正しく、どちらが誤りとも言えない気がする。現実は物語のように白黒ハッキリ付けられるものではないだろうし、人それぞれに、自分の人生の中で大切にしたいものがある、と言うことなのだろう。
以前、地元の市民大学で米国社会について、数回にわたって講義を受けたことがある。講師は現役の東大教授だった。講師曰く、「米国は歴史が浅い国ゆえに、古い歴史に対する憧れがある。それがよく現れているのが、古代ギリシャ神殿を思わせる威風堂々とした公共建築の数々」「米国の本質は都会にあるのではない。農村地帯にある。汗水垂らして働く農民こそが、かつてのカウボーイが、米国人の実像であり、彼らが米国大統領を選び、米国を動かしている」
映画を見ながら、特に後者の言葉が思い出された。米国大統領候補らはだからこそ、地方遊説を重視するらしい。自分たちこそ真性の米国市民と信じて疑わない人々を前に、自らも市民の為に汗水垂らすことを厭わない人間であることを、積極的にアピールするらしい。都市生活者にしても、その大半が地方出身者のはずであり、基本的な価値観は自身の出自によるところが大きいのではないか?
確かに私のような旅行者が訪れるのは、米国の中でもニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコ、ワシントンDC、ボストン、ラスベガスなど、都市部が多い。そうでなければグランド・キャニオンのような人里離れた雄大な自然が魅力の観光地である。今回の映画の舞台のような農村地帯を訪れることなど、殆どないだろう。私が知る米国の姿はほんの一部に過ぎず、知らないことの方がずっとずっと多いのだ。
そう言えば、LAのユニバーサル・スタジオ・ハリウッドを訪れた際、場所柄、米国各地から訪れる観光客が多いせいか、出会った人々の殆どが、自分がドラマや映画で知る人懐こい米国人と言うより、「人見知りな性格の持ち主」の印象が強かった。たまたま同じアトラクションで狭いスペースで短時間一緒になった家族は、こちらが親しみを込めて笑いかけても(却って怪しい外国人と思われたのか)、最後まで固い表情のままでニコリともしなかった。今考えると、夏休みに、アジア系もあまり住んでいないような地方から、家族旅行で来た人達だったのかもしれない(映画の中でもアジア系は一切登場しなかったような…)。
今回演出を手がけたガス・ヴァン・サント監督の作品は、「エレファント」「グッドウィル・ハンティング」「小説家を見つけたら」「永遠の僕たち」「ミルク」「誘う女」などを見て来たが、何れも登場人物達の関わり合いを丁寧に描いた人間ドラマで、見終わった後に深い余韻を残す作品揃い。人間の本質や生き方について、改めて考えさせられることも多い。
時折挟み込まれる風景描写も美しく、物語の舞台がどんな場所なのか、何気ない風景のワンショットが雄弁に語ってくれているかのよう。その演出は居丈高に何かを主張するでもなく、さりげないシーンで、さりげない台詞に、ハッとするような深みがあって、強い印象を残す。けっして説明口調でもないのに、直接的に何かを訴えるわけでもないのに、しっかりとメッセージが心に届く。これは監督の巧みな演出力の賜物なのだろう。
最近はCGの多用や3Dなど技術頼みの作品が多く(それはそれで映画的外連味が楽しかったりするのだけれど)、十分に練られた脚本で、心の琴線に触れる台詞の多い、丁寧に作り込まれた人間ドラマが少ないので、こうした作品を見ると正直ホッとするし、米国映画もまだまだ捨てたもんじゃないなと思う。
(日比谷、TOHOシネマズシャンテにて鑑賞)
『プロミスト・ランド』公式サイト