NHKの朝ドラ「花子とアン」を見てつくづく思うことは、教育の重要性だ。意外にも脚本を手がけたライターは原作を読んで、花子や蓮子らの様々な障害を乗り越えて成就した恋愛エピソードに最も感銘を受けたらしいが、私自身は自分自身の経験に照らして、花子が当時の女性としては最高水準の教育を受けて、自身の人生を輝かせたことに、最も心を打たれている。
山梨の貧農の家に生まれた花子こと花は、行商人で、ちょっと風変わりな父の強力な後押しで、東京のミッションスクール、修和女学校で小学生の頃から給費性として学び、そこで学んだ英語力を武器に翻訳家・作家として活躍する。
一方で、花子の兄、妹達は、それぞれ十分な教育を受ける機会もなく、苦しい家計を助けるために女工として遠方の紡績工場へ働きに出たり、先行き暗い小作農以外で身を立てたいと軍隊に入隊したり、若くして見知らぬ男のもとへ遠く北海道まで嫁がせられたりと、貧しさゆえの苦労を一身に受けている。同じ親のもとに生まれた兄弟姉妹なのに、教育の有無で人生の明暗がクッキリと分かれてしまっている。劇中、兄や妹達が、花子の恵まれた人生を羨んだのは無理からぬことだと思う。
山梨を離れたことのない母親と違い、行商で日本各地へ赴き、世間を知る父親は、教育の重要性に早くから気付いていた。幼い頃から人一倍好奇心旺盛で、利発な花子に期待を寄せた彼は、ゴリ押しに近い形で花子を東京の修和女学校へと編入させた。結果的に花子は4人兄弟の中でも只1人、父親にえこひいきされた形だが、そのおかげで当時としては最高の英語教育を受け、自立する為の能力を得た。花子は他の兄弟姉妹の手前、大っぴらに思いを伝えられないまでも、父親の慧眼に感謝したことだろう。
一方、私の父は、私が密かに「昭和生まれの明治育ち」と揶揄したように、男尊女卑思想があからさまな人物だった(祖父がかなり偏った考えの持ち主で、次男だった父は幼少期から、酷い仕打ちを受けたらしい。後年、そのことを母から聞き、私は初めて父と言う人間を理解し、許した)。「女に学は要らない」が口癖で、4人兄弟の長子である私には、「早く働いて家計を助けろ」と言い募った。特に私が小学校4年生の秋頃に、父が病に倒れ25年務めた会社を辞めて入退院を繰り返すようになってからは、外に働きに出始めた母に代わって、家を購入後、自宅1階の店舗で始めた小さな書店の店番を私に任せるようになった(その当時は外で友達と遊べなかったのが悲しかったのだが、今にして思うと、数年間を殆どひとりで本に囲まれて過ごしたことが、私の後の人生を方向付けたように思う)。
もちろん、学校から帰宅後の数時間ではあるが、夕方には一時2階の自宅に上がって米をとぎ炊飯器をセットし、おかずを一点と汁物を作るのも私の仕事だった。おかげで中学校入学後、テニス部に入部しても、帰りが遅いと父に責められ続け、走り込みなどの基礎訓練を終え、やっとラケットを使用しての練習が始まって、これからいよいよと言う時に、部活を辞めさせられた。
私が幼稚園の頃、まだハイハイしたてのすぐ下の妹(後に4歳で交通事故により死亡)が私に近づいて来たことがあった。テレビを見ていた私は振り向きざまに、妹の手にあったカミソリの刃で額の生え際を切られてしまった。その直前まで髭を剃っていた父親が捨てたカミソリの刃に興味を持った妹が、その刃をゴミ箱から取り出し、私のところまで持って来たのだった。
5cmほどの切り傷で、私の額からはドクドクと血が流れたが、荒くれ男の父はタバコの葉で止血すれば良いと言って、病院にも連れて行ってくれなかった。おかげで今でも大きな傷跡が額に残っている。幸い生え際なので前髪で隠れているのだが、この顛末を最近知った末妹は、父のいい加減さに激怒していた。
父はとにかく短気な性格で、病気で気持ちが荒んでいたこともあるが、勝手に妄想して人を怒鳴りつけることも度々であった。中学生の時には傘を投げつけられ、それが右目の上瞼を直撃し、9針縫うケガを負った。さすがにその時は救急外来で治療を受けたが、あと少しずれていれば失明の憂き目に遭っていた。もちろん、なぜそんなケガをしたかなんて、当時の友達には言えなかった。
母親は優しく、いつも笑顔の絶えない女性だったが、こんな時にも父親に文句のひとつも言えない弱い女性だった。離婚すれば、自分の力だけでは生活が立ちゆかないことを、何よりも恐れていたのだろう。今なら「児童相談所」に通報されてもおかしくないレベルのDVぶりだったが、当時は今ほど、世間にもそういう認識はなかったのかもしれない。
私が高校に入学してからは「高校を卒業したら公務員になれ」と言い募った。高校で公務員模試を受験したら、特に試験対策をしたわけでもないが(当時は今のような試験対策問題集もなかった)トップの成績で合格確率80%以上と出た。高3の夏に公務員試験を受けたら、10倍を超える倍率だったが合格した。
しかし、有力企業が乏しい地方である。公務員になりたい人はいくらでもいて、ペーパーテストで合格しても、いざ採用の段階ではコネがまかり通っていた。不運なことに、私の父は他県出身者で、母は地元でも商家の出身で親類縁者に公務員はいない。結局、採用には至らなかった。実際、同級生の中でも特に女性の場合、公務員(そもそも採用が男性優先)になったのは、親類縁者皆公務員だとか、教員にしても親が教員と言う人が多い。
一応、公務員試験合格者は初級の場合、1年間は採用候補としてリストアップされる。私は父親の要求に応えて公務員試験を受験したし、合格もしたので、義理は果たしたと思っていたが、父親は「とにかく働いて家にお金を入れろ」と言って、どこから探して来たのか、自宅からほど近い建設会社の仕事を探してきた。4月1日から、否応なく、その会社で働くことになった。
実は、自分がアルバイトで稼いだお金で、私は父親には内緒で共通一次試験を受験していた。点数は自分の希望する地元の国立大の学科の合格点に十分達していたが、たとえ合格したとしても学費は調達できないし、二次試験を受験する費用さえなかったので諦めた。ただ、いつかチャンスがあれば進学したいという思いは消えなかった。
複雑な思いを抱えつつ4月から働き始めた私だが、入社1カ月で辞めたいと思った。高校の普通科を出て、経理ができるわけでもない私に何ができよう?実際、掃除とお茶汲みと電話応対と、日報の記録が主な仕事だったが、トイレ清掃が一番憂鬱だった。
零細企業で現場監督以外は皆日雇いの労働者だったが、従業員はとにかくトイレの使い方が汚く、多い時には日に10回以上、トイレを掃除した。糞尿まみれのトイレを掃除しながら、すごく惨めな気持ちになった。月曜日から土曜日まで、午前8時から午後6時までの勤務で、給与は7万円。それに5,000円の交通費がプラスされる。ボーナスは2年目から支給とのことだった。その中から毎月3万円を家に入れた。
入社して2カ目には来年の進学のことを考え始めていた。父親の反対に遭うのは目に見えている。学費も自分で調達するしかない。家にお金を入れなくなることにも、父親は腹を立てるだろう。親を騙し騙し学生生活を続けるのは2年が限度だと思った。もちろん、学費の不安もあった。就職も確実にしなければ。そう考えると、当時としては短期大学への進学が最適解だった。
早速、地元の短大の就職率や就職先について調べ、当時は地元の国立大に次いで、抜群の就職率で女子には人気の高かった短大を目指すことにした。試験科目は国語と英語と小論文。高校時代にはどれも得意だったものだ。その年、その短大に入学した友人から、高校の教師が作ってくれた過去問集を譲り受け、入試直前の3カ月間、仕事が終わってから毎日勉強した。
短大には無事、合格したが、入学直後、初対面の助教授に「君が○○君か」と言われた。入学試験の成績が良かったらしい。以後、その先生とは卒業後も30年以上に渡り親交が続いている。私の窮状を知って、短大時代には私を研究アシスタントとして有給で雇って下さった。心から「恩師」と呼べる先生だ。
父親には入学直前まで短大入学のことを黙っていた。入学に必要な費用をすべて払い込んだ後に「もう入学が決まったから」と事後報告で、短大に入学してしまった。父親は不満たらたらだったが、私は私の人生をもうこれ以上父親に支配されたくない、振り回されたくない、と思っていたから、あくまでも強気で通した。
1年目の学費はどうにか工面できたものの、問題は2年目だった。それも幸いなことにバイトと奨学金でどうにか賄えた。自宅通学だったのも幸いした。父親からは相変わらず文句を言われ続けたが、そもそも学業とバイトに明け暮れたので、父親との接点が少なくて済んだ。
私の学生時代は、ハマトラ・ファッション花盛りで、合コンも流行り始めた頃だった。しかし、私にはおしゃれする心の余裕も、合コンに参加する時間もお金もなく、そう言った華やかな学生生活とは無縁だった。バイトで夜中の1時頃に帰宅し、翌朝8時半の講義に出ると言うこともあった。疲れていたが、若かったことと、自分で稼いだお金で短大に通っているんだという自負とで、ハードスケジュールを乗りきった。とにかく自ら選んだ道だから後悔したくないという思いで学業に注力して、オール優に近い成績で卒業し、無事、就職もできた。
就職先は必ずしも自分の希望する分野ではなかったが、そこに就職したことで地元を離れ、私を支配しようとする父親と物理的にも距離を置くことができたし、その職場で夫とも出会えたので、自分にとっては正しい選択だったと思っている(ただし、親元を離れた後も、月3万円、ボーナス半額の実家への仕送りは続き、私は相変わらず貧乏だった。親の呪縛からようやく逃れられたのは結婚後のことだ)。
後年、私は36歳で夫の協力もあって4年制大学へ進学するのだが、その時に親しくした、私より20歳も若い同級生達の殆どが、卒業後、教師としてのキャリアを着実に積み上げて行っている。私はその大学を首席で卒業したが、年齢の壁と健康の問題(体力の減退)もあって、今さらキャリアを積むには遅きに失した感がある。やはり、「鉄は熱いうちに打て」だ。特に女性の場合、職種によって年齢制限のある日本では、できるだけ若いうちにキャリアをスタートさせ、仕事と私生活の両立(ワーク・ライフ・バランス)のコツを掴んだ方が良いに決まっている。
地元に帰省した時にも、4年制大学を卒業した友人達は、教師や専門職としてキャリアを積んでいる人が多く、4年制大学は短大よりも専門性をもったキャリアを積み上げるには適した教育機関(分野によっては専門学校もそうだろう)なのだなと思う。残念ながら短大を出た友人の多くは結婚・出産を機に1度家庭に入って、今はパート職に就いている人が圧倒的に多い(私が学生の当時、短大は就職率が高く、しかも就職先は一流企業が多いと言っても、職種は一般職が殆どで、雇う側も「結婚退職が前提」の雰囲気だった)。もちろん、世間を広く見渡せば、残間里江子氏や小谷真生子氏など、短大出身者でキャリアを積んだ成功者もいるが、割合として見れば、4年制大学卒業者に分があるのではないか?
時代の趨勢(当時は4大卒女性よりも短大卒女性に対しての方が就職の門戸も広かった。女性の間でも「就職は腰かけ」と言う意識が高かったのかもしれない)にもよるのかもしれないが、当時、4年制に進学するか、短大に進学するかの選択において、親の影響は大きかったのではないか?
女性に対しては4年制よりも短大への進学を勧める親の多かった時代に、4年制の進学を勧めた、或いは許した親は、間違いなく子どもの教育に対して熱意を持った親である。何の不安も、迷いもなく進学の希望を果たせた人は、それだけで親に感謝すべきだ。自分の恵まれた環境に感謝すべきだと思う(いかんせん恵まれた環境にいると、自分の周囲には似たような環境の人ばかりで、努めて"外の世界"を見ない限り、自分が恵まれていることには気付かないものだ)。
私の夫も貧しい家の出身だが、両親は教育の重要性を認識し、爪に火を灯す思いで貧窮に喘ぎながら、2人の子を県外の国立大学に進学させた。夫も両親の思いを受け継いで、我が子の教育には熱心だ(それ以上に子煩悩なのが嬉しい)。私は自分の父親を反面教師に、そして自分自身の経験に照らして、子どもに対する教育の重要性を認識しているつもりだ。田畑を持たない庶民が我が子に残せるのは「教育」と言う無形の財産しかないと思っている。
もちろん、「教育」とは学業のみを指しているわけではなく、ひとりの人間として、どうあるべきかのモラルを、幼い頃から時間をかけて教えるのも「教育」である。
何より我が子の幸せを願って、その適性を見極め、その為に必要な教育の機会を与えることが、親としての務めだろう。例えば大学教授の息子が職人を目指すことはアリだし、逆に職人の子どもが研究職を目指しても何ら不思議ではない。また、大学よりも専門学校で学ぶ方が、子どもの目指す進路に適うスキルを獲得できる場合もあるだろう。或いは中学、高校を卒業してすぐに、実社会で体験的に学ぶ方が向いている子ども(←所謂、ストリート・スマート)だっているはずだ。
子どもが将来どんな進路を選択するのであれ、子どもが自立して自分の人生を歩む為に必要なスキルを、子どもが親元から巣立つまでに「教育」によって身につけさせることが、親として一番大事な仕事だと思う。
ところで、背景は異なるものの、私も村岡花子女史と同じ4人兄弟の長女である。しかも4人兄弟の中で大学を出たのは私だけで、こと学歴に関しては村岡花子女史やその兄弟姉妹と似たような状況である。
現代にあってこの結果は、親の意識の低さもあるが、やはり本人達の問題でもあると思う。私の弟や妹達は、お世辞にも勉強好きとは言い難かった。私がことある毎に教育の重要性を訴えても、暖簾に腕押し、豆腐に釘であった。それも原因のひとつなのか、甥の1人は、高校卒業を目前に中退してしまい、今は派遣労働者として東北に赴いている。夫方の甥姪は軒並み国立大、有名私立大に進学したのに、私の実家では教育軽視の"負の連鎖"が止まらない。残念で仕方がない。
ここで私が言いたいのは、子どもには「自ら育つ」側面もあるということだ。「自分で自分を育てる」と言う意識を持つことで、誰でも自分の人生を自ら切り開いて行くことが出来る。たとえ親の意識が低く、頼りにならない存在でも、子ども自身が自尊心を持ち自助努力すれば、最高とは行かないまでも、自分なりに充実した人生を歩むのは十分可能なのである。
そのような人生を歩んで来た人は、声高に喧伝していないだけで、実際には世の中に幾らでもいると思う。今、親のことで悩んでいる人には、「負の連鎖」は自分の代で絶ち切る気概を持って、自分の内にある「自ら育つ力」を信じて、境遇に負けることなく生きて行って欲しい。
山梨の貧農の家に生まれた花子こと花は、行商人で、ちょっと風変わりな父の強力な後押しで、東京のミッションスクール、修和女学校で小学生の頃から給費性として学び、そこで学んだ英語力を武器に翻訳家・作家として活躍する。
一方で、花子の兄、妹達は、それぞれ十分な教育を受ける機会もなく、苦しい家計を助けるために女工として遠方の紡績工場へ働きに出たり、先行き暗い小作農以外で身を立てたいと軍隊に入隊したり、若くして見知らぬ男のもとへ遠く北海道まで嫁がせられたりと、貧しさゆえの苦労を一身に受けている。同じ親のもとに生まれた兄弟姉妹なのに、教育の有無で人生の明暗がクッキリと分かれてしまっている。劇中、兄や妹達が、花子の恵まれた人生を羨んだのは無理からぬことだと思う。
山梨を離れたことのない母親と違い、行商で日本各地へ赴き、世間を知る父親は、教育の重要性に早くから気付いていた。幼い頃から人一倍好奇心旺盛で、利発な花子に期待を寄せた彼は、ゴリ押しに近い形で花子を東京の修和女学校へと編入させた。結果的に花子は4人兄弟の中でも只1人、父親にえこひいきされた形だが、そのおかげで当時としては最高の英語教育を受け、自立する為の能力を得た。花子は他の兄弟姉妹の手前、大っぴらに思いを伝えられないまでも、父親の慧眼に感謝したことだろう。
一方、私の父は、私が密かに「昭和生まれの明治育ち」と揶揄したように、男尊女卑思想があからさまな人物だった(祖父がかなり偏った考えの持ち主で、次男だった父は幼少期から、酷い仕打ちを受けたらしい。後年、そのことを母から聞き、私は初めて父と言う人間を理解し、許した)。「女に学は要らない」が口癖で、4人兄弟の長子である私には、「早く働いて家計を助けろ」と言い募った。特に私が小学校4年生の秋頃に、父が病に倒れ25年務めた会社を辞めて入退院を繰り返すようになってからは、外に働きに出始めた母に代わって、家を購入後、自宅1階の店舗で始めた小さな書店の店番を私に任せるようになった(その当時は外で友達と遊べなかったのが悲しかったのだが、今にして思うと、数年間を殆どひとりで本に囲まれて過ごしたことが、私の後の人生を方向付けたように思う)。
もちろん、学校から帰宅後の数時間ではあるが、夕方には一時2階の自宅に上がって米をとぎ炊飯器をセットし、おかずを一点と汁物を作るのも私の仕事だった。おかげで中学校入学後、テニス部に入部しても、帰りが遅いと父に責められ続け、走り込みなどの基礎訓練を終え、やっとラケットを使用しての練習が始まって、これからいよいよと言う時に、部活を辞めさせられた。
私が幼稚園の頃、まだハイハイしたてのすぐ下の妹(後に4歳で交通事故により死亡)が私に近づいて来たことがあった。テレビを見ていた私は振り向きざまに、妹の手にあったカミソリの刃で額の生え際を切られてしまった。その直前まで髭を剃っていた父親が捨てたカミソリの刃に興味を持った妹が、その刃をゴミ箱から取り出し、私のところまで持って来たのだった。
5cmほどの切り傷で、私の額からはドクドクと血が流れたが、荒くれ男の父はタバコの葉で止血すれば良いと言って、病院にも連れて行ってくれなかった。おかげで今でも大きな傷跡が額に残っている。幸い生え際なので前髪で隠れているのだが、この顛末を最近知った末妹は、父のいい加減さに激怒していた。
父はとにかく短気な性格で、病気で気持ちが荒んでいたこともあるが、勝手に妄想して人を怒鳴りつけることも度々であった。中学生の時には傘を投げつけられ、それが右目の上瞼を直撃し、9針縫うケガを負った。さすがにその時は救急外来で治療を受けたが、あと少しずれていれば失明の憂き目に遭っていた。もちろん、なぜそんなケガをしたかなんて、当時の友達には言えなかった。
母親は優しく、いつも笑顔の絶えない女性だったが、こんな時にも父親に文句のひとつも言えない弱い女性だった。離婚すれば、自分の力だけでは生活が立ちゆかないことを、何よりも恐れていたのだろう。今なら「児童相談所」に通報されてもおかしくないレベルのDVぶりだったが、当時は今ほど、世間にもそういう認識はなかったのかもしれない。
私が高校に入学してからは「高校を卒業したら公務員になれ」と言い募った。高校で公務員模試を受験したら、特に試験対策をしたわけでもないが(当時は今のような試験対策問題集もなかった)トップの成績で合格確率80%以上と出た。高3の夏に公務員試験を受けたら、10倍を超える倍率だったが合格した。
しかし、有力企業が乏しい地方である。公務員になりたい人はいくらでもいて、ペーパーテストで合格しても、いざ採用の段階ではコネがまかり通っていた。不運なことに、私の父は他県出身者で、母は地元でも商家の出身で親類縁者に公務員はいない。結局、採用には至らなかった。実際、同級生の中でも特に女性の場合、公務員(そもそも採用が男性優先)になったのは、親類縁者皆公務員だとか、教員にしても親が教員と言う人が多い。
一応、公務員試験合格者は初級の場合、1年間は採用候補としてリストアップされる。私は父親の要求に応えて公務員試験を受験したし、合格もしたので、義理は果たしたと思っていたが、父親は「とにかく働いて家にお金を入れろ」と言って、どこから探して来たのか、自宅からほど近い建設会社の仕事を探してきた。4月1日から、否応なく、その会社で働くことになった。
実は、自分がアルバイトで稼いだお金で、私は父親には内緒で共通一次試験を受験していた。点数は自分の希望する地元の国立大の学科の合格点に十分達していたが、たとえ合格したとしても学費は調達できないし、二次試験を受験する費用さえなかったので諦めた。ただ、いつかチャンスがあれば進学したいという思いは消えなかった。
複雑な思いを抱えつつ4月から働き始めた私だが、入社1カ月で辞めたいと思った。高校の普通科を出て、経理ができるわけでもない私に何ができよう?実際、掃除とお茶汲みと電話応対と、日報の記録が主な仕事だったが、トイレ清掃が一番憂鬱だった。
零細企業で現場監督以外は皆日雇いの労働者だったが、従業員はとにかくトイレの使い方が汚く、多い時には日に10回以上、トイレを掃除した。糞尿まみれのトイレを掃除しながら、すごく惨めな気持ちになった。月曜日から土曜日まで、午前8時から午後6時までの勤務で、給与は7万円。それに5,000円の交通費がプラスされる。ボーナスは2年目から支給とのことだった。その中から毎月3万円を家に入れた。
入社して2カ目には来年の進学のことを考え始めていた。父親の反対に遭うのは目に見えている。学費も自分で調達するしかない。家にお金を入れなくなることにも、父親は腹を立てるだろう。親を騙し騙し学生生活を続けるのは2年が限度だと思った。もちろん、学費の不安もあった。就職も確実にしなければ。そう考えると、当時としては短期大学への進学が最適解だった。
早速、地元の短大の就職率や就職先について調べ、当時は地元の国立大に次いで、抜群の就職率で女子には人気の高かった短大を目指すことにした。試験科目は国語と英語と小論文。高校時代にはどれも得意だったものだ。その年、その短大に入学した友人から、高校の教師が作ってくれた過去問集を譲り受け、入試直前の3カ月間、仕事が終わってから毎日勉強した。
短大には無事、合格したが、入学直後、初対面の助教授に「君が○○君か」と言われた。入学試験の成績が良かったらしい。以後、その先生とは卒業後も30年以上に渡り親交が続いている。私の窮状を知って、短大時代には私を研究アシスタントとして有給で雇って下さった。心から「恩師」と呼べる先生だ。
父親には入学直前まで短大入学のことを黙っていた。入学に必要な費用をすべて払い込んだ後に「もう入学が決まったから」と事後報告で、短大に入学してしまった。父親は不満たらたらだったが、私は私の人生をもうこれ以上父親に支配されたくない、振り回されたくない、と思っていたから、あくまでも強気で通した。
1年目の学費はどうにか工面できたものの、問題は2年目だった。それも幸いなことにバイトと奨学金でどうにか賄えた。自宅通学だったのも幸いした。父親からは相変わらず文句を言われ続けたが、そもそも学業とバイトに明け暮れたので、父親との接点が少なくて済んだ。
私の学生時代は、ハマトラ・ファッション花盛りで、合コンも流行り始めた頃だった。しかし、私にはおしゃれする心の余裕も、合コンに参加する時間もお金もなく、そう言った華やかな学生生活とは無縁だった。バイトで夜中の1時頃に帰宅し、翌朝8時半の講義に出ると言うこともあった。疲れていたが、若かったことと、自分で稼いだお金で短大に通っているんだという自負とで、ハードスケジュールを乗りきった。とにかく自ら選んだ道だから後悔したくないという思いで学業に注力して、オール優に近い成績で卒業し、無事、就職もできた。
就職先は必ずしも自分の希望する分野ではなかったが、そこに就職したことで地元を離れ、私を支配しようとする父親と物理的にも距離を置くことができたし、その職場で夫とも出会えたので、自分にとっては正しい選択だったと思っている(ただし、親元を離れた後も、月3万円、ボーナス半額の実家への仕送りは続き、私は相変わらず貧乏だった。親の呪縛からようやく逃れられたのは結婚後のことだ)。
後年、私は36歳で夫の協力もあって4年制大学へ進学するのだが、その時に親しくした、私より20歳も若い同級生達の殆どが、卒業後、教師としてのキャリアを着実に積み上げて行っている。私はその大学を首席で卒業したが、年齢の壁と健康の問題(体力の減退)もあって、今さらキャリアを積むには遅きに失した感がある。やはり、「鉄は熱いうちに打て」だ。特に女性の場合、職種によって年齢制限のある日本では、できるだけ若いうちにキャリアをスタートさせ、仕事と私生活の両立(ワーク・ライフ・バランス)のコツを掴んだ方が良いに決まっている。
地元に帰省した時にも、4年制大学を卒業した友人達は、教師や専門職としてキャリアを積んでいる人が多く、4年制大学は短大よりも専門性をもったキャリアを積み上げるには適した教育機関(分野によっては専門学校もそうだろう)なのだなと思う。残念ながら短大を出た友人の多くは結婚・出産を機に1度家庭に入って、今はパート職に就いている人が圧倒的に多い(私が学生の当時、短大は就職率が高く、しかも就職先は一流企業が多いと言っても、職種は一般職が殆どで、雇う側も「結婚退職が前提」の雰囲気だった)。もちろん、世間を広く見渡せば、残間里江子氏や小谷真生子氏など、短大出身者でキャリアを積んだ成功者もいるが、割合として見れば、4年制大学卒業者に分があるのではないか?
時代の趨勢(当時は4大卒女性よりも短大卒女性に対しての方が就職の門戸も広かった。女性の間でも「就職は腰かけ」と言う意識が高かったのかもしれない)にもよるのかもしれないが、当時、4年制に進学するか、短大に進学するかの選択において、親の影響は大きかったのではないか?
女性に対しては4年制よりも短大への進学を勧める親の多かった時代に、4年制の進学を勧めた、或いは許した親は、間違いなく子どもの教育に対して熱意を持った親である。何の不安も、迷いもなく進学の希望を果たせた人は、それだけで親に感謝すべきだ。自分の恵まれた環境に感謝すべきだと思う(いかんせん恵まれた環境にいると、自分の周囲には似たような環境の人ばかりで、努めて"外の世界"を見ない限り、自分が恵まれていることには気付かないものだ)。
私の夫も貧しい家の出身だが、両親は教育の重要性を認識し、爪に火を灯す思いで貧窮に喘ぎながら、2人の子を県外の国立大学に進学させた。夫も両親の思いを受け継いで、我が子の教育には熱心だ(それ以上に子煩悩なのが嬉しい)。私は自分の父親を反面教師に、そして自分自身の経験に照らして、子どもに対する教育の重要性を認識しているつもりだ。田畑を持たない庶民が我が子に残せるのは「教育」と言う無形の財産しかないと思っている。
もちろん、「教育」とは学業のみを指しているわけではなく、ひとりの人間として、どうあるべきかのモラルを、幼い頃から時間をかけて教えるのも「教育」である。
何より我が子の幸せを願って、その適性を見極め、その為に必要な教育の機会を与えることが、親としての務めだろう。例えば大学教授の息子が職人を目指すことはアリだし、逆に職人の子どもが研究職を目指しても何ら不思議ではない。また、大学よりも専門学校で学ぶ方が、子どもの目指す進路に適うスキルを獲得できる場合もあるだろう。或いは中学、高校を卒業してすぐに、実社会で体験的に学ぶ方が向いている子ども(←所謂、ストリート・スマート)だっているはずだ。
子どもが将来どんな進路を選択するのであれ、子どもが自立して自分の人生を歩む為に必要なスキルを、子どもが親元から巣立つまでに「教育」によって身につけさせることが、親として一番大事な仕事だと思う。
ところで、背景は異なるものの、私も村岡花子女史と同じ4人兄弟の長女である。しかも4人兄弟の中で大学を出たのは私だけで、こと学歴に関しては村岡花子女史やその兄弟姉妹と似たような状況である。
現代にあってこの結果は、親の意識の低さもあるが、やはり本人達の問題でもあると思う。私の弟や妹達は、お世辞にも勉強好きとは言い難かった。私がことある毎に教育の重要性を訴えても、暖簾に腕押し、豆腐に釘であった。それも原因のひとつなのか、甥の1人は、高校卒業を目前に中退してしまい、今は派遣労働者として東北に赴いている。夫方の甥姪は軒並み国立大、有名私立大に進学したのに、私の実家では教育軽視の"負の連鎖"が止まらない。残念で仕方がない。
ここで私が言いたいのは、子どもには「自ら育つ」側面もあるということだ。「自分で自分を育てる」と言う意識を持つことで、誰でも自分の人生を自ら切り開いて行くことが出来る。たとえ親の意識が低く、頼りにならない存在でも、子ども自身が自尊心を持ち自助努力すれば、最高とは行かないまでも、自分なりに充実した人生を歩むのは十分可能なのである。
そのような人生を歩んで来た人は、声高に喧伝していないだけで、実際には世の中に幾らでもいると思う。今、親のことで悩んでいる人には、「負の連鎖」は自分の代で絶ち切る気概を持って、自分の内にある「自ら育つ力」を信じて、境遇に負けることなく生きて行って欲しい。