はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

『苦役列車』(2012、日本)

2012年07月20日 | 映画(今年公開の映画を中心に)


 先日、久しぶりに息子と2人でファミレスでランチを食べていたら、隣の席の40代と思しき2人組の女性が、ババアがドータラコータラと大声で喋っていた。細かな内容までイチイチ聞いてはいないが、何度もババアを連呼しては下品な笑い声を上げるので、せっかくのご飯も不味くなるほどだった。
 延々と人の悪口をサカナに食事なんて…hekomi言葉には何の罪もないが、使い手の使い方によって、その品性は著しく損なわれるものなのだと、よ~く分かった。別に筆者には、誰からも尊敬を集める立派な人になろうなんて大それた考えは毛頭ないが、品性下劣な人間だけにはなるまい、と思う。

 表題の映画『苦役列車』を見て来た。作家、西村賢太が芥川賞を受賞した自伝的小説が原作の映画である。
 筆者は西村氏を何度かテレビで見かけたことがある。子どもも見るかもしれない時間帯の生放送で、臆面もなく「女を買う」とか「フーゾク通い」を公言するあたり、私が苦手とするタイプの男性である。(独身中年男の開き直りなのか?、それともわざとワルぶっているだけなのか?)女性を性的対象としか見ていないような気がして、お会いするのは御免被りたいタイプの男性であるbomb2

 その彼の若き日を描いた自伝的小説なのだから、おそらく私が苦手とする人物像が主人公だろうとは思ったが、主演が若手でも注目のカメレオン俳優、森山未來クンなのだから見ずにはおれない(貫多の友人、日下部正二役で共演の高良健吾クンも、本来、変幻自在のカメレオン俳優なのだが、今回は実直な青年キャラで存在感が今ひとつ薄い。しかし、そういう役柄も引き受けてキッチリ演じるのが、高良クンなのである)

「ねぇ、ヤラせてくれよ」「イヤよ!」
 で、期待の森山クンは、若き日の西村氏が投影されたであろう北町貫多を、見事に演じきっていたのである。
 15才から日雇い人足に身を投じ、浴びるように酒を飲んでは街で所構わずゲロと唾を吐き、日課のようにフーゾクに通い詰め、家賃を滞納しても悪びれず、プライドのカケラもなくすぐ土下座するもポーズだけ、臆面もなく友人には借金を申し込み、かわいい女性を見れば「ヤリたい」と言って憚らない。
 そんなどーしようもない北町貫多になりきっていた。しかし、森山クンの素の部分の清潔感で、19才にしてやさぐれた北町貫多は、ある種潔癖症の私でさえも辛うじて見るに堪える(笑)物語の主人公になっていた。

 貫多が小学生の時に父親が性犯罪を起こしたのをきっかけに一家は離散の憂き目に遭い、彼は両親が互いを愛し信頼しあい、我が子を慈しむ家庭の温もりに包まれることなく、15才で自活した。その生い立ちが、他者とマトモに信頼関係を結べない、友情や恋愛の何たるかを知らない、彼の情緒的欠落をもたらしたように思う。

 彼はけっして薄情な人間なんかではない。人の情に触れることなく孤独を抱きながら生きて来たがために、彼は人との関係を深める術をただ知らないだけなのだ。
 だから友情をじっくりと育み、互いに成長しあうことができない。それゆえに人は次第に彼から離れて行く。劇中、そんな一過性の出会いと離反を繰り返す貫多の姿は、見ていて痛々しかった。
 結局、「他者との距離感」や「関係性」と言ったものは、良き理解者の庇護の下、幼い頃から根気強く人と関わることを通してしか学べない、と言うことなのだろうか?不幸にも社会に出るまで「人と関わる術」を学べなかった人間は、何度となく心傷つき、孤独に直面しながら、自ら体験的に学んで行くしかないのだろう。

原作者、西村賢太氏
 この貫多が作家自身の若き日の姿であるとするならば、後年、自身を顧みて、その生き様を私小説へと昇華できたのは、当時ただ欲望のままに動いていた西村氏にとって唯一の理性的な行為と言って良い「読書」の賜物なのだろう。
 愛すべきキャラクターではない主人公の、お世辞にも輝いていたとは言えない青春時代。 しかし、これもまた紛れもない青春の姿形なのである。人生なのである。それが作家、西村賢太によって小説という形で世に出たこともまた、人が生きることの意味を考える上で必然だったのだろう(つまり、価値のあるなしに関係なく、生まれた人の数だけ人生があると言うこと。これは紛れもない真実なのだ)
 そして、今また映画で、森山未來と言う希有な役者を得て、『苦役列車』と言う作品は新たな魅力を放っている。

 キッタナイ言葉と情けないシーンのオンパレードだけれど、私、嫌いじゃないです。この作品。

chain映画『苦役列車』公式サイト

【映画のオリジナル・キャラクター:桜井康子を演じたAKB48出身の前田敦子

 古書店でバイトする女子大生を演じた前田敦子。主人公貫多が恋して、足繁く古書店に通うきっかけとなった女性だ。
 小説には存在しない映画オリジナルのキャラクターらしいが、彼女の登場により、女性の気持ちにはてんでお構いなしの貫多の恋愛オンチぶりが鮮明となった。ともすればむさ苦しい男ばかりの物語に、華やかさも添えている。

 マスコミで、やれ「思ったより集客力ない」だの、やれ「存在感が希薄」だのと叩かれているが、今回の彼女は悪くない。寧ろ、女優業を始めて間もない(←確か、映画とドラマで出演4本目位だよね?)彼女の初々しさが、不器用な若者の青春ドラマにピッタリと嵌っている。
 映画の興行成績不振の戦犯扱いとすら受け止められる、マスコミの報道姿勢には悪意すら感じる。ひとりの若い女の子を寄って集ってイジメて何が面白いのだろう?そもそも、映画の質と興行成績は必ずしも一致しないのではないか?


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