昨日の10日(土)、国立西洋美術館(以下、西美)にて開催中の『古代ローマ帝国の遺産』展に関連した講演会の第一回目を聴講して来た。以下は、その聴講記録である。講演中のメモを元に筆者(はなこ)が書き起こした。
講演者は独立行政法人国立美術館理事長であり、西美の館長でもある、青柳正規東大名誉教授。
日本における西洋古典考古学の先駆者であり、ポンペイ研究の第一人者である。近年は、東京大学ソンマ・ヴェスヴィアーナ発掘調査団のリーダーとして活躍されて来た。今なお発掘作業が続く、ヴェスヴィオス火山北山麓にあるソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡は、第二のポンペイとして、本国イタリアはもとより世界的に注目されている。ポンペイやソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡は、一説には「人類が最も幸福だった時代」とも称せられるローマ帝国時代の豊かな市民社会を、今に伝える貴重な文化遺産である。
今回の講演は、未曾有の繁栄を見たローマ帝国の成立について、白眉の執政官ジュリアス・シーザーから、彼の養子で、後に初代ローマ皇帝となったオクタヴィアヌス・アウグストゥスへと至るローマ帝国史を辿ることで、つまびらかにしたと言えるだろうか。
《皇帝座像アウグストゥス》
一般的に、初代皇帝のアウグストゥスよりもシーザーの方が知名度が高い。青柳氏曰く、その理由はシーザーがシェイクスピアをはじめとする作家の小説に度々取り上げられたことによる。知名度は小説でどれだけ取り上げられたか、その中でどのように描かれたかで決まると言う。
ローマの執政官(今で言う「首相」職)であったシーザーは、遠くはブリテン島まで到達した華々しい戦績で元老院に妬み疎まれ、政治的失脚を画策される。それを察知したシーザーは、他国との国境線であるルビコン川を武装解除することなく渡りきり、ローマへと凱旋した。それは当時としては違法行為で、反逆罪とも取られかねない大胆な行動であった。しかしこれにより敵対する元老院一派を撃破し、名実共にローマのトップへと上り詰めた。
当時、地中海世界は大小多くの国家がひしめき合い、ナイル川デルタ地帯、クレタ島、チュニジアと言った肥沃な土地の領有権を巡り、戦争が絶えなかった。過密な都市部が常に食糧不足の状態にあったのが原因である。そこで平和を希求したシーザーは、地中海世界を統一し、戦争のない世界を築こうと構想した。しかし、歴史が示すように、彼は道半ばで暗殺されてしまう。その構想の継承者としてシーザーが遺言状で指名したのは誰あろう、当時まだ17歳の青年であった甥のオクタヴィアヌスであった。亡きシーザーの養子となった彼は、シーザーが思い描いた構想を実現すべく、次々と大胆な改革を断行した。
そのひとつが、それまでのローマの伝統であった、対外拡張政策の中止である。ただし、エジプト、モエシア、ガラティア、カンタブリア、アストリア、アルプス、ラエティア、ノリクム、ユダヤ、パンノニア等を新たにローマ領とした。もちろん、その道のりはけっして平坦ではなかった。若きオクタヴィアヌスを補佐していたアントニウス・レピドゥスが反旗を翻し、エジプトの女王クレオパトラと手を組んで、オクタヴィアヌスへ戦いを挑んだのである。アントニウスらが率いるエジプト軍との海戦に代表されるような内戦に勝利した後、オクタヴィアヌスは、48軍団あった兵力を28軍団(約16万8千人)に削減し、軍務を解かれた兵士を市民として、新たな領有地へ派遣した。日本で言えば、北海道開拓団として赴いた屯田兵のようなものだろうか。
スーダンの高地を源流とする、全長6,700キロにも及ぶナイル川は、スーダンから流れ出る肥沃な土壌を、エジプトのデルタ地帯まで運ぶ役割を担っている。この為、デルタ地帯は古代より一大穀倉地帯として豊穣を極めていた。高さ133mを誇るクフ王のピラミッド建造も、想像を絶するエジプトの豊かさが背景にあった、と青柳氏は言う。これが「エジプトはナイルの賜物」と言われる所以である。アントニウス、クレオパトラ率いるエジプト軍との海戦の勝利によって、ローマはこのエジプトを手に入れたわけで、これはローマ帝国成立の大きな第一歩となった。
エジプトを掌握したオクタヴィアヌスは、強固な権力地盤を築くべく、元老院議員のエジプト入国を禁止した。当時、24の属州を持っていたローマは、オクタヴィアヌスと元老院とで、その支配を分け合っていた。しかし、その後元老院との巧みな駆け引きでオクタヴィアヌスは軍隊の全権を掌握。圧倒的な権力で以て、BC27年、属州を統合し、ローマ帝国を成立させたのである。その時、アウグストゥスの尊号を受け、彼は事実上「皇帝」となった。
オクタヴィアヌス・アウグストゥス帝は、「平和」「秩序」「理性」を尊重し、有能な家臣アグリッパと共に、平和の構築とその維持に努めた。後に「瓦礫の市街であった首都ローマを受け継いで、大理石の市街を残した」と賞賛されるように、彼はローマ帝国の黄金時代の礎を築いたのである。以上、述べて来た通り、彼の業績は以下の6点に集約される。
・平和の実施
・領域国家の樹立
・統治制度の確立
・軍指令権の掌握
・食糧供給の保証
・都市文明の繁栄
つづく…
講演者は独立行政法人国立美術館理事長であり、西美の館長でもある、青柳正規東大名誉教授。
日本における西洋古典考古学の先駆者であり、ポンペイ研究の第一人者である。近年は、東京大学ソンマ・ヴェスヴィアーナ発掘調査団のリーダーとして活躍されて来た。今なお発掘作業が続く、ヴェスヴィオス火山北山麓にあるソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡は、第二のポンペイとして、本国イタリアはもとより世界的に注目されている。ポンペイやソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡は、一説には「人類が最も幸福だった時代」とも称せられるローマ帝国時代の豊かな市民社会を、今に伝える貴重な文化遺産である。
今回の講演は、未曾有の繁栄を見たローマ帝国の成立について、白眉の執政官ジュリアス・シーザーから、彼の養子で、後に初代ローマ皇帝となったオクタヴィアヌス・アウグストゥスへと至るローマ帝国史を辿ることで、つまびらかにしたと言えるだろうか。
《皇帝座像アウグストゥス》
一般的に、初代皇帝のアウグストゥスよりもシーザーの方が知名度が高い。青柳氏曰く、その理由はシーザーがシェイクスピアをはじめとする作家の小説に度々取り上げられたことによる。知名度は小説でどれだけ取り上げられたか、その中でどのように描かれたかで決まると言う。
ローマの執政官(今で言う「首相」職)であったシーザーは、遠くはブリテン島まで到達した華々しい戦績で元老院に妬み疎まれ、政治的失脚を画策される。それを察知したシーザーは、他国との国境線であるルビコン川を武装解除することなく渡りきり、ローマへと凱旋した。それは当時としては違法行為で、反逆罪とも取られかねない大胆な行動であった。しかしこれにより敵対する元老院一派を撃破し、名実共にローマのトップへと上り詰めた。
当時、地中海世界は大小多くの国家がひしめき合い、ナイル川デルタ地帯、クレタ島、チュニジアと言った肥沃な土地の領有権を巡り、戦争が絶えなかった。過密な都市部が常に食糧不足の状態にあったのが原因である。そこで平和を希求したシーザーは、地中海世界を統一し、戦争のない世界を築こうと構想した。しかし、歴史が示すように、彼は道半ばで暗殺されてしまう。その構想の継承者としてシーザーが遺言状で指名したのは誰あろう、当時まだ17歳の青年であった甥のオクタヴィアヌスであった。亡きシーザーの養子となった彼は、シーザーが思い描いた構想を実現すべく、次々と大胆な改革を断行した。
そのひとつが、それまでのローマの伝統であった、対外拡張政策の中止である。ただし、エジプト、モエシア、ガラティア、カンタブリア、アストリア、アルプス、ラエティア、ノリクム、ユダヤ、パンノニア等を新たにローマ領とした。もちろん、その道のりはけっして平坦ではなかった。若きオクタヴィアヌスを補佐していたアントニウス・レピドゥスが反旗を翻し、エジプトの女王クレオパトラと手を組んで、オクタヴィアヌスへ戦いを挑んだのである。アントニウスらが率いるエジプト軍との海戦に代表されるような内戦に勝利した後、オクタヴィアヌスは、48軍団あった兵力を28軍団(約16万8千人)に削減し、軍務を解かれた兵士を市民として、新たな領有地へ派遣した。日本で言えば、北海道開拓団として赴いた屯田兵のようなものだろうか。
スーダンの高地を源流とする、全長6,700キロにも及ぶナイル川は、スーダンから流れ出る肥沃な土壌を、エジプトのデルタ地帯まで運ぶ役割を担っている。この為、デルタ地帯は古代より一大穀倉地帯として豊穣を極めていた。高さ133mを誇るクフ王のピラミッド建造も、想像を絶するエジプトの豊かさが背景にあった、と青柳氏は言う。これが「エジプトはナイルの賜物」と言われる所以である。アントニウス、クレオパトラ率いるエジプト軍との海戦の勝利によって、ローマはこのエジプトを手に入れたわけで、これはローマ帝国成立の大きな第一歩となった。
エジプトを掌握したオクタヴィアヌスは、強固な権力地盤を築くべく、元老院議員のエジプト入国を禁止した。当時、24の属州を持っていたローマは、オクタヴィアヌスと元老院とで、その支配を分け合っていた。しかし、その後元老院との巧みな駆け引きでオクタヴィアヌスは軍隊の全権を掌握。圧倒的な権力で以て、BC27年、属州を統合し、ローマ帝国を成立させたのである。その時、アウグストゥスの尊号を受け、彼は事実上「皇帝」となった。
オクタヴィアヌス・アウグストゥス帝は、「平和」「秩序」「理性」を尊重し、有能な家臣アグリッパと共に、平和の構築とその維持に努めた。後に「瓦礫の市街であった首都ローマを受け継いで、大理石の市街を残した」と賞賛されるように、彼はローマ帝国の黄金時代の礎を築いたのである。以上、述べて来た通り、彼の業績は以下の6点に集約される。
・平和の実施
・領域国家の樹立
・統治制度の確立
・軍指令権の掌握
・食糧供給の保証
・都市文明の繁栄
つづく…