はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

マダム・イン・ニューヨーク(原題:English Vinglish、インド、2012)

2014年07月26日 | 映画(今年公開の映画を中心に)


 今から10年程前のことである。美術館の帰り、ひとり電車に乗っていた。いつものように自宅最寄り駅で降りて、当時構内にあったパン屋に入ったところ、突然、見知らぬ外国人に、英語で話しかけられた。

 「英語を話せますか?僕は○○に住んでいるんだけれど、君と話したくて、電車を途中で降りたんだ」と。も、もしかして、40代にして、人生初のナンパ?

 その外国人、浅黒い肌に、身長は190cmは軽く超えているであろう大男だが、スレンダーで、なかなかの美男子。しかし、どう見ても20代半ばから30代前半。私がドギマギして無言なところへ、なおも話しかける。

 「あなたは独身ですか?両親と住んでいるのですか?家はこの近くですか?」どうも私のことを、自分と同世代と思っているらしい。やはり、話の流れからしてナンパのようである。話している英語の訛りから察するに、インド人か、その周辺国の出身と見た。

 結局、「ワタシ、エイゴ、ワカリマセン」で、逃げた。ハッキリ、私は中学生の息子がいる主婦です、と答えるべきだったのかもしれないが、とにかく予想もつかない出来事に驚いて、その場から…逃げた。

 日本人女性としては、婉曲な表現で呼ぶなら"ぽっちゃり系"、遠慮のない呼び方なら"デブ"の私。何しろ10年前のことなので、少なくとも今よりはウエストにくびれもあった。しかもナンンパされた時、私には珍しくボディ・コンシャスな服を着ていた。

 なぜ自分がインド人青年?にナンパされたのか、当時は謎だったのだが、後年、インド映画を見るようになって、登場する美女が揃いも揃ってグラマラスと言うか、かなり肉感的なのを知り、日本では"デブ"扱いの私も、インド人から見たら、もしかしたら「日本人離れした、長い黒髪のグラマラスな美女」に見えたのかもしれない、との結論に至った(笑)。


 …と前置きがかなり長くなってしまったが、表題の映画の主演女優シュリデヴィも、今でこそ美しいサリーを身にまとい、落ち着いたマダムの雰囲気を湛えているが、スター女優として活躍していた頃の彼女は、はちきれんばかりのダイナマイトボディを強調するような衣装で、歌い、踊っていたのである。

 その彼女が結婚・出産を機にスクリーンから遠ざかり、本作が実に15年ぶりの復帰作となった。撮影当時、既に50歳近いはずだが、その美貌は健在。まるで少女漫画から抜け出たヒロインのような長い睫毛と大きな瞳は、彼女の心情を豊かに表現して、見る者を釘付けにする。結婚生活の充実が、さらに大人の女性としての自信を彼女に与えたようにも見える。

【2020.05.15 追記】

 主演のシュリデビィ・カプールさんは2018年2月24日に、甥御さんの結婚式で訪れたドバイのホテルの浴室で急逝されたんですよね。その一報を目にした時には本当に驚きました。すごく残念です。改めて、ご冥福をお祈りいたします。



 本作の主人公は、インドに暮らす中産階級の専業主婦シャシ。料理上手で、彼女が作るお菓子ラドゥは近所でも評判だ。家族を心から愛し、彼らに尽くすシャシ。

 しかし、仕事人間の夫は妻の料理の腕前を認めるも、妻が手作りの菓子ラドゥを人々の求めに応じて販売するのを快く思わず、ミッションスクールに通う娘は娘で、英語が苦手な母親をあからさまに恥じている。

 主婦が家事をするのは当たり前、主婦のくせに今さら自己主張するな、と彼女を家庭に縛り付けておきながら、主婦は家事をするだけの半人前で教養に欠ける、と言わんばかり。そんな家族の心ない態度にシャシは深く傷つき、自信をなくしている。

 そんな彼女の人生は、米国に暮らす姪の結婚式の準備を手伝うために、家族より一足先に単身ニューヨークに渡るところから少しずつ動き始める。


  主人公シャシのサリー姿がとにかく気品に溢れ、美しい…。その七変化もお楽しみあれ!

 異国で現地の言葉や習慣が分からないばかりに戸惑ったり、思わぬ失敗をして、現地の人間から辛辣な言葉を投げかけられたり、失礼な態度を取られることは少なくない。ニューヨークに渡ったシャシもそうだった。彼女の短いニューヨーク生活は、屈辱的な体験から始まった。

 ニューヨーク郊外の姉の元に滞在するも、日中、姉はもちろんのこと、その娘達も仕事や学校で不在がちである。そこで意を決して街に出てはみたものの、不慣れな土地では電車に乗ることすら一苦労である。ただでさえ心細いのに、ファーストフード店では店員に馬鹿にされ、恥ずかしさのあまり店を飛び出してしまったシャシ。

 落ち込んでベンチに座り込むシャシに、店で出会った男性が優しく声をかけてくれた。どうにか気を取り直したシャシの目に飛び込んで来たのは、路線バスの車体広告。「4週間で英会話!」と謳った英会話学校の広告だ。咄嗟に、その学校の電話番号を覚えるシャシ。ここから、"奥様"シャシの挑戦が始まるのだ!



 シャシが参加したクラスには、さまざまな国籍の、さまざまな立場の老若男女がいた。世界中から人々を吸引して止まない国際都市ニューヨークならではの多様性だ。まさに"サラダボウル"である。そこには「英語を学ぶ」と言うひとつの目的の下に、紆余曲折を経て、国家間の不和、人種間の偏見を乗り越えて、互いを理解しあう人々の姿があった。

 その中で講師のディヴィッド先生が扇の要とも言える存在で、個性豊かな生徒達をうまく束ねていた。終始リベラルな態度で生徒達と向き合う姿はひとりの人間として素敵だし、尊敬に値する。

 今やインターネットで使用される言語の8~9割が英語と言われる中、ビジネスでも、学問の分野でも、英語圏の人間は英語ができるというだけで、非英語圏の人間に比べて大きなアドバンテージがある。逆に非英語圏の人間は、英語が出来ないばかりに不利益を被ることが少なくない。「英語帝国主義」と揶揄される所以である。現実的対処として、非英語圏の人々は英語を学ぶしかない現状がある。

 私も中東駐在時に、British Councilの現地校に通った経験がある。クラスは、レベル的にはある程度英語をしゃべれる人々の集まりで、やはり現地の人が圧倒的に多かったものの、仕事で駐在のフランス人男性、自国内の混乱から現地に避難していたスーダン人女性などもいた。

 講師はオックスフォード大で歴史学の博士号を取得したと言うレバノン人女性。現地の人にしても、パレスチナ系や近隣のシリア系、イラク系と厳密には一様でなく、20人ばかりの小さな教室でも人種のパッチワークが形作られていた。私は好奇心も手伝って、休み時間にはクラスメイトと積極的に会話した。

 スーダンの恵まれた家庭の出身者と思しき美貌の若い女性は、当初、アジア系の私を(たぶん、アジア系と言うだけで)小馬鹿にした様子だったが、ペーパーテストで私が一位の成績を取ると、態度が一変した。フランス人男性は偶然同世代で、南仏出身だという彼とは、最初から会話が弾み、互いの家族の話で盛り上がった。

 一方、オックスフォード出のレバノン人女性講師は、名門大で博士号を取得しながら、英会話学校の講師に甘んじている自分の不遇を嘆いている風だった。その言葉の端々にプライドの高さが窺えたが、キャリア形成もままならない彼女の境遇には同情した。

 現地の人々とも程なく仲良くなり、互いの家を行き来するまでになった。シリア系のアムジャッドと名乗る好青年とは、その後家族ぐるみの付き合いに発展した。パレスチナ系女子大の職員と言う年配女性ライラとは当初からウマが合い、彼女を通じて、JICAの招きで来日経験もある現地のキャリア官僚女性とも知り合うことが出来た。当時、現地の郵便事情も良好とは言えない中、彼女のたっての頼みで、来日時に世話になったと言う日本の医大教授への贈り物を、善意のリレーで無事教授の元へ送り届けられたのは、駐在時の印象深い出来事のひとつである。

 幼子を抱えた一介の主婦が、知り合いのいない異国で、こうした多様な人々と出会えたのも、英会話学校のおかげである。彼女達との触れあいは、イスラム圏で、幼子もいて、日中ひとりで外出もままならない私にとって何よりの息抜きとなり、異文化を知る貴重な機会でもあった。

 これは夫が現地の研究機関に在籍し、残業が殆どなかったことが幸いしたとも言えるが、アップタウンにある我が家からダウンタウンにある英会話学校への送迎と、私が不在中に息子の世話をしてくれた夫には、今でも感謝している(さらに、駐在を終えて帰国後、駐在中ヨーロッパの美術館を訪ね歩いたのが高じて大学で西洋美術史を学びたいと訴えた私に、夫は進学を許し、学費まで出してくれた。たぶん、夫には一生頭が上がらない。今も理解ある夫に日々支えられている私は、かなり恵まれた幸せな"主婦"に違いない)

 私自身の実体験に照らして、映画の主人公シャシの身に起こる出来事のひとつひとつがいちいちもっともなことで、思わず何度も「そうそう」と頷き、心の中では「頑張れ!、シャシ」とエールを送りながら、物語の展開に注視した。シャシを励ましながら、その実、自分が励まされているようだった。

 主婦であるシャシは、ただ家族から尊重されたかっただけである。家族からのリスペクトが欲しかったのである。

 彼女の4週間の英会話学習の集大成とも言える、クライマックスのスピーチには心を打たれた。彼女のコンプレックスに他ならなかった英語で、自分の思いの丈を表現する。それは皮肉にも、彼女が彼女自身の言葉を持った瞬間でもあった。

 その表現は未だ稚拙であっても、伝えたい内容は聡明さと思いやりに溢れ、聞き手の心に響いたに違いない。けっして流ちょうではない訥々とした語り口が、却って一語一語をしっかりと聞き手の心に届けたようにも見えた。さらにそれは、彼女を蔑ろにしていた家族に反省を促す一撃でもあった。購入した映画のパンフレットにはその全文が掲載されていて、それだけでもパンフレットを買って良かったと思った。



 CM監督として長らく活躍し、これが長編映画第一作目だというガウリ監督は30代後半の女性である。自身の母を念頭に脚本も手がけた監督の手腕は高く評価され、国内外で監督賞を総なめにしたらしい。

 本作は結婚によって男性以上にその環境や立場の変化を余儀なくされる女性の尊厳を描いて、ボーダーレスな魅力を放っている。女性は大いに励まされる一方で、男性は自身の妻や恋人への日頃の態度を顧みる機会となるに違いない。

 また、ニューヨークを主舞台にすることで、本作は、インド人、ひいてはアジア人から見た欧米社会の様相を描いていると言っても良いだろうか?なかなか興味深い観察に富んでいて、「あるある」エピソードのオンパレードである。そしてインド映画に、確実に新しい風が吹いているのを感じる佳作である。その意味でも、是非、多くの人に見ていただきたい作品である。



chain映画「マダム・イン・ニューヨーク」公式サイト


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