先週の土曜日、7月27日、高島忠夫さんが83歳の誕生日を迎えた。
そして、今日、高島さん本人から電話があり、久々に、個人的に、小一時間ほど話した。
高島忠夫さんといえば、往年の映画俳優であり、東宝ミュージカルのスターであり、
テレビのバラエティー番組の司会、映画解説者などでもおなじみだが、
テレビ・ラジオから遠ざかった近年は、
息子の高嶋政宏くんや政伸くんの父親としての印象のほうが強くなっている。
今年の6月、フジテレビの『カスペ!』で、
その高島忠夫さんの近況を伝える闘病記が放送された。
高島さんは、1998年に重度のうつ病を発症したのをきっかけに、
当時4本あったレギュラー番組を降板し、
テレビ・ラジオなどの表舞台から姿を消し、先の見えない闘病生活に入った。
僕と高島さんのつきあいはもう40年近くになる。
1975年、高島さんが文化放送で始めた
『高島忠夫のモーニングジャンボ』というラジオ番組の構成作家として、
番組スタッフに加えてもらったのがきっかけであった。
当時の僕はまだ20歳そこそこのかけだしの作家で、
最初のうちは、メインの構成作家である久間兼輔さんの原稿を拾い読みしたりして、
コーナーの原稿を書いたりしていたが、
スタジオで冗談を言い合いっているうちに、高島さんとすっかり意気投合し、
「タニシ、タニシ」と可愛がってくれるようになり、
次第に書かせてもらえる分量が増えた。
結果、20年続いた番組が最終的に終わる時には、
メインの構成作家として、ほとんどのコーナーの原稿を書いていたし、
高島さんとは他局での番組や数々のイベントもこなし、
さながら高島さんの座付き作家として行動を共にするほどになっていた。
それにしても、20歳のそこそこの時に、「意気投合し、可愛がってくれ」た・・・
というけれど、これは実に恐れ多いことだ。
なにしろ、当時の高島忠夫さんといえば、週に10本からのレギュラー番組を抱え、
「日本歌謡大賞」やらなにやらビッグなスペシャル番組の司会もこなす大スターだった。
そんな高島さんを相手に、丁々発止と渡りあい、
つまんないギャグをかましてしまうんだから、
いま思い返しても、当時の僕も相当に怖いもの知らずの生意気盛りだったと思う。
でも、その分、僕は高島さんから実に多くのことを学んだ。
決して自慢をするわけではないが、(それが自慢だちゅーの!)
僕がどんな分野のどんなくだらない(?)ことでもよく知っているのは、
子供の頃からの生来の知識欲もあるけれど、
実は、一緒に仕事をする中で高島さんから直接学んだこと、
高島さんの好奇心や探究心から始まってそれをさらに詳しく調べたこと、
こういう知識の切磋琢磨が大きかったいえる。
その点では、高島さんは、僕にとっての“師匠”ともいえる人である。
高島さんは、世事一般、映画、音楽、食べ物の話などなんでも詳しく、
日本の映画史、歌謡史を飾った数々の大スターの素顔や裏話などもあきるほど聞いた。
僕が、なんでもかんでも“耳年増”なのはそのおかげともいえる。
そんな高島さんが突然うつになった時のこともよく覚えている。
その頃は、僕と高島さんはもう一緒に行なう仕事もなくなり、
年に何度かしか会わない関係になっていたが、
1998年の6月、僕は、北海道の知人の依頼で、
その知人のお父さんの紫綬褒章受賞を祝うパーティーの司会を高島さんに依頼した折、
打ち合わせのために、高島さんの所属事務所である日比谷の東宝芸能へ赴いたところ、
なにやら高島さんの様子がおかしい。
いつもはやたらテンションの高い高島さんが何か悩んでいるかのように沈み込み、
僕の冗談にもおいそれと乗ってこない・・・
すかさず、「どうしたんですか?今日はテンション低いですね」と訊ねると、
「うん、ここんとこ1週間ばかり、なんかへんなんよ」と眉をハの字にして言う。
実は、高島さんのこの変調は、事務所側も気づいていたらしく、
高島さん担当のT取締役からこっそり、
「こっちも原因がわからないんだよ。逆にあなたにだったら何か話すかもしれないから、
聞いてみてくれないかな」と耳打ちされたほどだった。
こうして、その仕事のために一緒に北海道へ出かけたのだが、
旅行中も高島さんはいっこうにテンションが上がらず、
僕に、「すまんねぇ、すまんねぇ」と繰り返すばかり・・・
いったい何があったのだろう?
そして、それから3カ月以内に、
高島さんは次々にレギュラー番組を降り、隠居生活に入ってしまった。
隠居・・・といえば聞こえはいいけれど、
40年にわたって活躍してきた華やかなな芸能界から、
突然、実質的に引退状態になってしまったのだ。
その時、高島さん、68歳。
あれから15年・・・
その間、うつがやや癒えた折に、
六本木や渋谷で高島ファミリーがライブを行った時には、
どんな按配かとライブを覗きにいったり、息子たちの結婚式に行ったりしたが、
楽屋を訪れても、決して二人だけでゆっくりしゃべったわけでもなく、
またその時の様子を見ても、高島さんが完璧に復活しているとは言い難かった。
実は、高島さんは、この間、うつだけでなく、
もともとの糖尿病を悪化させると同時に、
難病といわれるパーキンソン病まで患っていたのだった・・・
高島さんと昔風に軽口を叩けるなら、
「“難病三銃士”やん」と言いたいところだ。
まさにその闘病のつらさ、すさまじさは想像を絶するものだったろう。
そして、それを知っているのは高島ファミリーだけだったといえる。
6月の『カスペ!』では、その模様も語られていた。
その高島忠夫さんが、僕の“師匠”が、テレビに出られるまでに“回復”した。
『カスペ!』を見た時は、本当にびっくりした!
糖尿病やパーキンソン病の影響で、
元来せっかちで大股で動き回る高島さんの動きは格段に遅くなっていた・・・
というか、まともには動けなくなっている・・・
でも、これまでとは、この15年間の合間合間に見てきた高島さんとはなにかが違った!
そう、あの往年の“軽口”が戻り、
なんと介護をする寿美さんや息子たちを相手にギャグを連発している・・・
あの軽口が出れば、これはまさに“復活”と呼んでも間違いはない。
高島さんの回復を信じて世話をしてきた寿美さんの頑張りを思い、涙が出た。
そういえば、去年の暮れに政宏くんに会った時に、
彼から「だいぶよくなったから連絡をしてあげて下さいよ。きっと喜ぶと思うから・・・」
と言われていたこともある。
そこで、高島さんに電話をしてみようと思った。
が、しかし、いくらなんでも「テレビを見ました!」では、
いままでご無沙汰してきた手前バツが悪い、
そこで、7月27日の誕生日をきっかけにしよう、
その時に手紙を書こうと思ったのだった。
それが今日の電話につながった。
今回、誕生日のプレゼントにと、
高島さんが新東宝時代に主演した映画『思い出月夜』と『坊ちゃん罷り通る』の2本のDVDを同封。
だって、糖尿病じゃ、食べ物を贈るわけにもいかないし・・・
そうしたら本日いきなり電話が・・・
「あんたねぇ、あの手紙じゃ字がちいそうて読めへんよ。おかげで拡大コピーしてもらったわ」
「あはは、じゃあ、次ぎからは紙1枚に1字ずつ書きますよ」
そして、「もう大丈夫やから、遊びにおいで」というので、
もう少し落ち着いたら遊びにいく約束をした。
軽口の高島忠夫さんの復活! 僕は嬉しくなって、また、涙が出た。
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そして、今日、高島さん本人から電話があり、久々に、個人的に、小一時間ほど話した。
高島忠夫さんといえば、往年の映画俳優であり、東宝ミュージカルのスターであり、
テレビのバラエティー番組の司会、映画解説者などでもおなじみだが、
テレビ・ラジオから遠ざかった近年は、
息子の高嶋政宏くんや政伸くんの父親としての印象のほうが強くなっている。
今年の6月、フジテレビの『カスペ!』で、
その高島忠夫さんの近況を伝える闘病記が放送された。
高島さんは、1998年に重度のうつ病を発症したのをきっかけに、
当時4本あったレギュラー番組を降板し、
テレビ・ラジオなどの表舞台から姿を消し、先の見えない闘病生活に入った。
僕と高島さんのつきあいはもう40年近くになる。
1975年、高島さんが文化放送で始めた
『高島忠夫のモーニングジャンボ』というラジオ番組の構成作家として、
番組スタッフに加えてもらったのがきっかけであった。
当時の僕はまだ20歳そこそこのかけだしの作家で、
最初のうちは、メインの構成作家である久間兼輔さんの原稿を拾い読みしたりして、
コーナーの原稿を書いたりしていたが、
スタジオで冗談を言い合いっているうちに、高島さんとすっかり意気投合し、
「タニシ、タニシ」と可愛がってくれるようになり、
次第に書かせてもらえる分量が増えた。
結果、20年続いた番組が最終的に終わる時には、
メインの構成作家として、ほとんどのコーナーの原稿を書いていたし、
高島さんとは他局での番組や数々のイベントもこなし、
さながら高島さんの座付き作家として行動を共にするほどになっていた。
それにしても、20歳のそこそこの時に、「意気投合し、可愛がってくれ」た・・・
というけれど、これは実に恐れ多いことだ。
なにしろ、当時の高島忠夫さんといえば、週に10本からのレギュラー番組を抱え、
「日本歌謡大賞」やらなにやらビッグなスペシャル番組の司会もこなす大スターだった。
そんな高島さんを相手に、丁々発止と渡りあい、
つまんないギャグをかましてしまうんだから、
いま思い返しても、当時の僕も相当に怖いもの知らずの生意気盛りだったと思う。
でも、その分、僕は高島さんから実に多くのことを学んだ。
決して自慢をするわけではないが、(それが自慢だちゅーの!)
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子供の頃からの生来の知識欲もあるけれど、
実は、一緒に仕事をする中で高島さんから直接学んだこと、
高島さんの好奇心や探究心から始まってそれをさらに詳しく調べたこと、
こういう知識の切磋琢磨が大きかったいえる。
その点では、高島さんは、僕にとっての“師匠”ともいえる人である。
高島さんは、世事一般、映画、音楽、食べ物の話などなんでも詳しく、
日本の映画史、歌謡史を飾った数々の大スターの素顔や裏話などもあきるほど聞いた。
僕が、なんでもかんでも“耳年増”なのはそのおかげともいえる。
そんな高島さんが突然うつになった時のこともよく覚えている。
その頃は、僕と高島さんはもう一緒に行なう仕事もなくなり、
年に何度かしか会わない関係になっていたが、
1998年の6月、僕は、北海道の知人の依頼で、
その知人のお父さんの紫綬褒章受賞を祝うパーティーの司会を高島さんに依頼した折、
打ち合わせのために、高島さんの所属事務所である日比谷の東宝芸能へ赴いたところ、
なにやら高島さんの様子がおかしい。
いつもはやたらテンションの高い高島さんが何か悩んでいるかのように沈み込み、
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旅行中も高島さんはいっこうにテンションが上がらず、
僕に、「すまんねぇ、すまんねぇ」と繰り返すばかり・・・
いったい何があったのだろう?
そして、それから3カ月以内に、
高島さんは次々にレギュラー番組を降り、隠居生活に入ってしまった。
隠居・・・といえば聞こえはいいけれど、
40年にわたって活躍してきた華やかなな芸能界から、
突然、実質的に引退状態になってしまったのだ。
その時、高島さん、68歳。
あれから15年・・・
その間、うつがやや癒えた折に、
六本木や渋谷で高島ファミリーがライブを行った時には、
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またその時の様子を見ても、高島さんが完璧に復活しているとは言い難かった。
実は、高島さんは、この間、うつだけでなく、
もともとの糖尿病を悪化させると同時に、
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まさにその闘病のつらさ、すさまじさは想像を絶するものだったろう。
そして、それを知っているのは高島ファミリーだけだったといえる。
6月の『カスペ!』では、その模様も語られていた。
その高島忠夫さんが、僕の“師匠”が、テレビに出られるまでに“回復”した。
『カスペ!』を見た時は、本当にびっくりした!
糖尿病やパーキンソン病の影響で、
元来せっかちで大股で動き回る高島さんの動きは格段に遅くなっていた・・・
というか、まともには動けなくなっている・・・
でも、これまでとは、この15年間の合間合間に見てきた高島さんとはなにかが違った!
そう、あの往年の“軽口”が戻り、
なんと介護をする寿美さんや息子たちを相手にギャグを連発している・・・
あの軽口が出れば、これはまさに“復活”と呼んでも間違いはない。
高島さんの回復を信じて世話をしてきた寿美さんの頑張りを思い、涙が出た。
そういえば、去年の暮れに政宏くんに会った時に、
彼から「だいぶよくなったから連絡をしてあげて下さいよ。きっと喜ぶと思うから・・・」
と言われていたこともある。
そこで、高島さんに電話をしてみようと思った。
が、しかし、いくらなんでも「テレビを見ました!」では、
いままでご無沙汰してきた手前バツが悪い、
そこで、7月27日の誕生日をきっかけにしよう、
その時に手紙を書こうと思ったのだった。
それが今日の電話につながった。
今回、誕生日のプレゼントにと、
高島さんが新東宝時代に主演した映画『思い出月夜』と『坊ちゃん罷り通る』の2本のDVDを同封。
だって、糖尿病じゃ、食べ物を贈るわけにもいかないし・・・
そうしたら本日いきなり電話が・・・
「あんたねぇ、あの手紙じゃ字がちいそうて読めへんよ。おかげで拡大コピーしてもらったわ」
「あはは、じゃあ、次ぎからは紙1枚に1字ずつ書きますよ」
そして、「もう大丈夫やから、遊びにおいで」というので、
もう少し落ち着いたら遊びにいく約束をした。
軽口の高島忠夫さんの復活! 僕は嬉しくなって、また、涙が出た。
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