しかし、五年の隔たりによる距離感は埋まらない。共通する話題はすぐに出尽くした。あの浦島太郎の気分である。
家にたどり着くと、深夜を過ぎていた。酔いが少し残っている。玄関は明るかった。引き戸に鍵はかかっていない。母のやり口だった。
「まあ遅かったのう。それで風呂にすっか?腹は減っとらんか?」
玄関に入ると、母は今から飛び出してきた。昔からわが子のことになると、何をさておいても行動する。いまだ健在だった。
「風呂がええな。入ったら寝てまうかも知れへんけど」」
「ほうけ。疲れたんやな」
「そうでもないけど……」
「そうや。電話があったわ、東京から」
「へぇー。誰からやろ?」
東京から連絡が入るとは想定外である。東京の事情はきれいさっぱり片付けて来た。それをワザワザ連絡をくれる相手に思い当たらない。不思議でしかない。
湯につかりながら、頭を巡らせた。頃合いに沸かされた湯は、うっかりすると眠気を誘う。思案がその事態を防いでくれる。
「ぬるうないけ?もっと薪をくべたろか?」
母はまだいた。追い炊きの必要はないと断ったのに、風呂の焚口で息子の役に立つべく頑張っている。有難いと思う。上京する前には思いもしなかった感謝の念だった。苦労したということか。人の思いやりを理解できる。ずいぶん成長している。誠は苦笑した。
「黒木さんて、向こうでお世話になった人か?」
話したりないのだろう。母は饒舌だった。
「うん。俺の上司や。田舎もんの俺を、えろう可愛がってくれはってなあ。東京を出るまで、いろいろ助けて貰うた」
黒木には感謝しても感謝したりない。落ち着いたらお礼の手紙を書くつもりでいる。
「ええ人に出会うて、東京も悪いばかりやなかったんやないけ」
「ああ、そうや」
「ほうや、忘れるとこやったがい。その黒木さんの電話なあ。あんたに伝えてほしいて……」
「どない言うてはった?」
「神戸の方の司厨士協会やらなんたらいうとこの、県支部のエライさんのう……」
焦れったいが、母は頭をフル回転させて報告を試みているのは分かっている。湯に顔を半分沈めた。これで余計なことを言わなくて済む。母の報告をゆっくりと待つだけだ。
「えーと、そうや、渡辺さんやったかいのう。そのエライさんに、お前の仕事、頼んどいた、言うてはったなあ、黒木さん」
「わかった」
黒木らしい配慮がありがたかった。明日起きたら早々に電話を入れてみよう。誠は湯の中で立ち上がった。熱くなっている。あれほど言ったのに、母は気を使って追い炊きをしたらしい。煮蛸になってしまう。
雲ひとつない。祭りにふさわしい限りなく青い空だ。厳粛でいて賑やかしい一日が始まる。
兄と入れ違いに風呂へ入った。身を清める意味がある。神前に奉納する豪華絢爛で荘厳な祭り屋台を担ぐ男衆の仲間入りをする。神様の前で身も心も清めて臨まなければならない。いつもの風呂とは意味合いが違う。湯につかっていると、自然と高ぶりを覚えた。
「おーい!誠、はよせーや。太鼓蔵に集まるんは、七時半や。遅れたら恥やぞ」
六時前には起きて風呂に飛び込んだ兄は、すでに用意万端だ。これ以上待たせたら、風呂に踏み込んできかねない。素っ裸で引っ張り出されるのはご免だ。
「いま、あがるぞ!」
誠は大声を上げた。すっかり忘れていた。ここ数年、小声で事足りる暮らしだった。仕事場で張り上げる声は、また別物なのだ。普段の生活で大声は禁物の都会にいたのだ。
家にたどり着くと、深夜を過ぎていた。酔いが少し残っている。玄関は明るかった。引き戸に鍵はかかっていない。母のやり口だった。
「まあ遅かったのう。それで風呂にすっか?腹は減っとらんか?」
玄関に入ると、母は今から飛び出してきた。昔からわが子のことになると、何をさておいても行動する。いまだ健在だった。
「風呂がええな。入ったら寝てまうかも知れへんけど」」
「ほうけ。疲れたんやな」
「そうでもないけど……」
「そうや。電話があったわ、東京から」
「へぇー。誰からやろ?」
東京から連絡が入るとは想定外である。東京の事情はきれいさっぱり片付けて来た。それをワザワザ連絡をくれる相手に思い当たらない。不思議でしかない。
湯につかりながら、頭を巡らせた。頃合いに沸かされた湯は、うっかりすると眠気を誘う。思案がその事態を防いでくれる。
「ぬるうないけ?もっと薪をくべたろか?」
母はまだいた。追い炊きの必要はないと断ったのに、風呂の焚口で息子の役に立つべく頑張っている。有難いと思う。上京する前には思いもしなかった感謝の念だった。苦労したということか。人の思いやりを理解できる。ずいぶん成長している。誠は苦笑した。
「黒木さんて、向こうでお世話になった人か?」
話したりないのだろう。母は饒舌だった。
「うん。俺の上司や。田舎もんの俺を、えろう可愛がってくれはってなあ。東京を出るまで、いろいろ助けて貰うた」
黒木には感謝しても感謝したりない。落ち着いたらお礼の手紙を書くつもりでいる。
「ええ人に出会うて、東京も悪いばかりやなかったんやないけ」
「ああ、そうや」
「ほうや、忘れるとこやったがい。その黒木さんの電話なあ。あんたに伝えてほしいて……」
「どない言うてはった?」
「神戸の方の司厨士協会やらなんたらいうとこの、県支部のエライさんのう……」
焦れったいが、母は頭をフル回転させて報告を試みているのは分かっている。湯に顔を半分沈めた。これで余計なことを言わなくて済む。母の報告をゆっくりと待つだけだ。
「えーと、そうや、渡辺さんやったかいのう。そのエライさんに、お前の仕事、頼んどいた、言うてはったなあ、黒木さん」
「わかった」
黒木らしい配慮がありがたかった。明日起きたら早々に電話を入れてみよう。誠は湯の中で立ち上がった。熱くなっている。あれほど言ったのに、母は気を使って追い炊きをしたらしい。煮蛸になってしまう。
雲ひとつない。祭りにふさわしい限りなく青い空だ。厳粛でいて賑やかしい一日が始まる。
兄と入れ違いに風呂へ入った。身を清める意味がある。神前に奉納する豪華絢爛で荘厳な祭り屋台を担ぐ男衆の仲間入りをする。神様の前で身も心も清めて臨まなければならない。いつもの風呂とは意味合いが違う。湯につかっていると、自然と高ぶりを覚えた。
「おーい!誠、はよせーや。太鼓蔵に集まるんは、七時半や。遅れたら恥やぞ」
六時前には起きて風呂に飛び込んだ兄は、すでに用意万端だ。これ以上待たせたら、風呂に踏み込んできかねない。素っ裸で引っ張り出されるのはご免だ。
「いま、あがるぞ!」
誠は大声を上げた。すっかり忘れていた。ここ数年、小声で事足りる暮らしだった。仕事場で張り上げる声は、また別物なのだ。普段の生活で大声は禁物の都会にいたのだ。